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2007年07月19日

「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか

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 「わたしのことどう思う?」。
 この問いを受けた男性諸氏はさぞかし煩わしいことでしょうが、もちろん、男女を問わずこの問いは発せられます。つまり、「他人にとってわたしは何なのか」系の質問です。
 こうした質問が大変魅力的なのは、心理テストに夢中になる人々からもわかります。また「外国人から見た日本」といった語らいが衆目を惹くのも、同じ魅惑によるものです。
 「わたしのことどう思う?」の問い-答えの反復は、大変楽しいです。特に「外国人から見た日本」系には、わたしもかなり惹かれます。
 しかし、この問いは決して<わたし>のことを明らかにしませんし、それゆえにこそ独特の快楽をもたらします。そしてこの気持ち良さは、「寛容さと共存の何が問題なのか」で触れた「寛容」の気持ち良さと欺瞞につながっています。

 「わたしのことどう思う?」の気持ちよさは、ナルシシズムに由来します。
 ただし、ここで言うナルシシズムとは、問いに対して「可愛い」等々のポジティヴな答えが期待されるからではありません。実際「ウゼえなぁ」と思ってテキトーなおべんちゃらを返した殿方で、「そんなの、本当に思ってることじゃない!」と手痛い反撃にあった方は少なくないでしょう。
 彼・彼女たちは、必ずしも「褒め言葉」を期待しているのではありません。そんなものでは、ナルシシズムは満たされません。時には、むしろ辛辣な方がナルシシズムを満たすこともあります(※1)。知りたいのは「本当のこと」だからです。
 しかし「本当のこと」とは、字義通りの「本当」ではありません。むしろ「わたしは誰か」という問いを隠すためにこそ、「本当のこと」が問われています。
 「わたしのことどう思う?」は反復されます。心理テストは尽きることがなく、「外国人が見た日本」も大変再利用性の高いコンテンツです。翻せば、解答として与えられた「本当のこと」は、常に的を外しているのです。「わたしは誰か」に決定打が与えられないからこそ、<わたし>は浮遊し、思考し、言語経済を貨幣のように流動し続けられるのですから。

ナルシシスティックな「他者を通じて自らを見る」という事態にあっては、私は<他者>の目を通じて、<他者>における<自我-理想>の地点から、私は自分にとって愛するに値するものなのだというかたちで、自らを見るのである。しかし、私が「他者を通じて自らを見る」とき、「自らをして見せしめる[見られる対象となる]」という事態において私が自らをさらけだす宛先である、まなざしとしての対象のラディカルな異質性が見失われてしまうのだ。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク

 つまり「わたしのことどう思う?」は、「本当のこと」を問うてはいるのですが、その「本当」とはあくまで自我-理想において<わたし>が何であるか、です。これは象徴的なものの統制的機能であり、ステキなボスに「君はコレをやっていなさい」と(しばしば困難な課題を)命じてもらうような気持ち良さです(※2)。
 ここで捨象されているラディカリズムとは、「多様性を受け入れる寛容な社会」で暗黙的に切り捨てられる「<他者>の他者性」です。「寛容さ」が認める「多様性」とは、ある基体の続く限りでの多様性、「地平線の範囲内での多様性」であり、暗黙のうちに基体の枠にすべてを押し込もうとする営みです。「寛容さ」には「認めてやる」素朴な快楽ばかりでなく、「わたしのことどう思う?」の問いを繰り返すようなナルシシズムがあります(※3)。
 正確には、「<他者>の他者性」とは不可能なものですから、地平線の向こうにあるのは<他者>の不在です。そのぽっかりと空いた空虚、穴に、「何か」が浮かんでいます。

 では、浮かんでいる「何か」、「まなざしとしての対象のラディカルな異質性」とは何でしょうか。
 まなざしとは「見る」次元を可能にしている何か、光点、「目を覆わんばかり」に見えすぎるものです。あまりに「見える」ので、サングラスやフィルターが必要です。このフィルターが「目」です。逆説的にも、目がまなざしを覆い隠すのです(※4)。
 フィルターに守られ、「わたしのことどう思う?」と問う<わたし>は、押入れの中からこっそり世界を覗き見る「思考としての<わたし>」です。隙間の向こうには「君はこんな感じ」「あんな感じ」と様々な「本当」を示す紙芝居が演じられますが、押入れの中は依然安全です(※5)。
 この関係が逆転する瞬間を、ジジェクはヒッチコックの『裏窓』から引いています。つまり、殺人現場を覗き見している主人公が、殺人者から見返される瞬間です。このとき、わたしたちは「自分を見る自分を見る」というナルシシズムから離れ、フィルタの向こうにある「目を覆わんばかり」のモノに直面します。

まなざしの場合、主体がそれに対して自らをして見せしめる[見られる対象にする]地点=場所はトラウマ的異質性や非透明性という性質を保持している。したがってそれは厳密にラカン的な意味で対象―象徴的特徴ではなく―なのである。(同書)

 そこで発見されるのは、自らの光景の中に落下した自分、視野に映るシミです。
 『精神分析の四基本概念』の中で、ラカンが珍しく若い時の話をします。彼が粗野な男たちにまじって、船で漁に出た時の話です。波間に浮かびキラッと光る缶を指して、漁師が言います。「こっちからは向こうが見えるけれど、向こうからはこっちが見えないんだぜ」。しかしラカンは、何か違和感を感じます。「向こうこそ、こっちを見ているのではないか」。
 粗野な男たちに混じって、青年ラカンは明らかに「浮いた」存在です。そして波間には缶が「浮いて」います。光点として。何か「そぐわないもの」として。
 安全な風景の一部であったものが、無気味なものに転換します。「あれはわたしだ、あそこでわたしを眼差ているもの、それがわたしじゃないか」。
 「対象のラディカルな異質性」とは、「存在としての<わたし>」です。わたしが思考し、象徴経済の中の浮遊し続けるために切り捨てなければならなかったもの、そこにあって唯一、<わたし>が思考できない地点です。
 「わたしのことどう思う?」という問いが隠し守ってきたものが、そこで露になります。「君はコレだよ」と、「目を覆わんばかり」のグロテスクなモノが示されることによって。

 少し応用的な喩えを出します。
 「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」で「最も危険な『反権力』とは、権力の言説に字義通りに従ってしまうもの」であり、「真の権力とは、無名のリベラル大衆」であると書きました。そして外山恒一さんは「原付免許の試験で本音を書きすぎて落ちる」バカ正直(ほとんど「バカ」)であるために、「危険人物」である、としました(外山さん個人のことを言いたいわけではない)。
 この喩えを敷衍していみるなら、原付で30kmで走っている人こそ、「反権力」です。絶滅寸前の田舎の暴走族など、新左翼ばりに「権力の良き相方」であり、権力に雇用創出している補完要素にすぎません。実際、「昔ワルだった」タイプに限って、早々に良きパパ・ママになって農村から自民党を支えていたりするものです。
 時速30kmで走る原付は「危険人物」です。物理的にも大変危険です。ラディカルです。
 そしてもし、本当にひたすら30kmを守っている原付がいたら、警察以前に一般のドライバーが苛立ってくることでしょう。この一般ドライバーこそ、「名も無く貧しい権力」です。
 まだ話は終わりません。
 30kmで走る原付は確かに目障りなのですが、「非常識」「非現実的」等の想像的言説に逃げることなくじっと観察していると、段々無気味になってきます。怒りを通り越して、空恐ろしくなってくるのです。
 「一体こいつは何者なんだ? 延々と目の前を制限速度で走りやがって、何がしたいんだ?」。
 パッシングにもクラクションにも動じずひたすら30kmで走るモノ。それが「苛立ちの対象」から「無気味なもの」に変わった瞬間に立ち現れるもの、それがあなたです。
 そこにある無気味なものこそ、症候であり、わたしたちが「思考する主体」であるために排除せざるを得なかった「モノとしての<わたし>」です。
 ユダヤ人が「排除」されたのは、それがヨーロッパの症候であり、ヨーロッパそのもの、「モノとしてのヨーロッパ」だからです。
 30kmで走る原付が危険なのは、あなたが本当は誰なのか、それが教えてしまうからです。自分が誰なのかわかってしまったら、<わたし>は「会社員」「母親」「プログラマー」などの象徴的場を失い、言語経済を巡る貨幣的流動項目としての「思考する<わたし>」ではなくなってしまいます。それは恐怖であると同時に、目も眩むばかりの享楽でもあります。

 あなたが「会社員」でありたいなら、原付にはクラクションだけ鳴らしていなさい。そして「わたしのことどう思う?」と延々と問い続けるのが安全でしょう。
 しかし、クラクションは永遠には鳴らせません。物質の引力に引かれ、ホメオスタシスが失墜する時、あなたは知るのです。「あのとき、30kmで走っていた目障りな原付、あれが<わたし>だった、あんなつまらないものが・・・」。


※1
 ただし、「デブ」とか即答してその後関係がどうなっても、わたしは責任持ちませんが(笑)。もちろん、わたしも心地良くナルシシズムに酔いたいですから、程良く辛辣な「おべんちゃら」は大好きです。

※2
 もちろん、そんな「ステキなボス」もファンタジーにすぎないので、「理想の上司」ネタが尽きることはないし、少女マンガも永遠に不滅です。

※3
 「ドリトル先生と差別、なぜ多様性も「アイデンティティ」も無効なのか」参照。

※4
 「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」参照。

※5
 「メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか」参照。

関連記事:
『私家版・ユダヤ文化論』内田樹

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