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2007年07月23日

空気が読めない者、その罪状と判決

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 今まで何度か「ブログを非-mixi的・非-お付き合いの道具的に使うこと」について書いてきました(※1)。コメント欄の敷居の高さや、ブログ全体で用意しておく殺気や「壁」についてです。
 ところが、中には「壁」そのものが見えない人がいます。いわゆる「空気が読めない人」です。
 防壁を突破してくる人というのは二極分化していて、片方は侠気と知性に溢れた好人物、そしてもう一方が防壁を認識する能力すらない「空気が読めない人」です。真ん中のメインストリームはバッサリ切り捨て、という問題は脇に避けておくとして(笑)、この「壁が見えない人」の威力は凄まじいです。

 「壁が見えない人」も大別すると二種類いて、一つは古典的なパラノイア。
 昔からリアルでも壊れている人になつかれる傾向が強いのですが、このブログのテクストが彼・彼女の宇宙に突然ヒットしてしまったらしく、「それは冥王界で言うところの下位の神ですね!」的な熱烈ファンレターがやってくることがあります。
 冥王界のことは残念ながらよく存じ上げないのですが、こういうタイプはまだアリにしておきます。一定の距離さえキープできれば、素朴に面白いですから。むしろ冥王界のことを教えて頂きたい
 問題は、ここまでブッ飛ぶんでいるわけでもなく、でもちょっとおかしい、人格障害チックな方々です。DSM的な「人格障害」よりはずっと広く、職場に一人か二人はいておかしくないレベルの「場の読めない」タイプです。
 わたしはこういう人を「恐れ気ない」と形容することが多いのですが、経験的には、女の方が比率が高い気がします。おそらく、社会的に男性の方がよりヒエラルキーの強烈な世界を生きていて、「テメェわかってんだろうな」な暗黙の掟に習熟しているからでしょう。
 「恐れ気ない」女は、質問もタダだと思っています。「教えてくん」の百倍増強版です。世の殿方は愛想がないので、「教えてくん」には冷たくても両手ブラリ作戦な女には字義通りの回答しか与えないようですが、わたしは大変心が広いので、肘やナックルを駆使してもっと色々なことを教えてあげます。
 もちろん、男性の場合もあって、これは両手ブラリ女より更に質が悪いです。
 「弱者」「マイノリティ」自己認識の人が多い気がしますが、もしかするとこういう変なブログの運営者なら「わかってもらえる」とでも思ったのでしょうか。大体、生まれながらの「強者」なんてものはいなくて、弱さを抱えている人間が歯を食いしばってカッコつけているうちに、ちょっとずつ強くなるのです。「弱者」自認のまま「わかってもらおう」などという女の腐ったのは、そのまま腐葉土にでもなって頂きたい。

 さんざん罵倒した後でですが、実は問題にしたいのは「空気が読めない人」というより、「空気が読めない人批判」の方です。「空気が読めない人」は確かに迷惑なのですが、その批判が共有されている空間が、同じくらい気持ち悪い。一体「空気が読めない人批判」とは何なのでしょうか。

 この気持ち悪さというのは、要するに「空気が読めない人」も「読める人」も基本的には変わりがない、ということに由来します。
 そもそも、読む「空気」というのは実体としてあるわけではありません。「ドキュメントをよく探したら書いてありました」というようなのは「空気」とは言いません。
 「無い」ものを読めているか読めていないかは、当然ながら自分で判断することができません。では何をもって「読めている」とするのか。それは「読める人たち」の共同体に入っているか否か、です。
 「読める」人々は、自分たちが何らかの文化的コードを共有・習熟している、と信じていることがありますが、そんなものは「日本精神のルーツ」と一緒で、遡及的に想定されたファンタジーでしかありません。

<精霊>とは、そこでキリストがおのれの死後までも生き続ける、信ずる者たちの共同体である。つまり、キリストを信じるとは、信念それ自体を信じること、自分は孤立していないということ、信ずる者たちの共同体のメンバーであるということを信ずることと等しいのである。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク

人間の言葉は、その最も根底的な次元においては、パスワードとして機能する(・・・)コミュニケーションの手段、意味された内容の伝達の手段であるに先立って、言葉は語り手たちの相互確認のメディアなのである。

 では、いかにしてこの共同体は形成されるのか。「空気が読めない人」の排除によって、です。「空気が読める」とは「あの人空気読めないからねぇ」という陰口に参加しているかどうか、によって決定されるのです。
 つまり「空気が読めない人」は「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」でいうところの「一貫性のないものを字面通りに受け取る危険分子」であり、「『わたしのことどう思う?』という問いは何を隠すのか」の30kmで走り続ける原付です。「空気が読めない人」とは、「読める」共同体、「名も無く貧しい権力」の症候そのものなのです。

 自らを振り返って興味深いのは、(突然のコメントやメールといった)一対一的局面で「空気が読めない人」と向き合う時にはひたすら鬱陶しい一方、職場等で「あの人空気読めないからねぇ」等の語らいに巻き込まれる時には、より気分が悪い、ということです。後者の不快感や「読めてないよねぇ」と相槌を返す時の後ろ暗さというのは、つつがなく「読める」共同体に適応している人たちでも、いくらかは経験があるのではないでしょうか。
 しかし共同体の内部に留まろうとするなら、口が裂けても「ユダヤ人にもイイヤツはおるんちゃう」などと言ってはなりません。それは100%正論なのですが、そういうことを「正義の言説」として振りかざす者は、イヤイヤ相槌を打つ「か弱き権力」以上に醜悪です。大学人の言説によく見られることですが、要するに安全圏から「正義の判決」を下しているだけだからです。
 では、何を選べば良いのでしょう。
 「一対一的局面での不快感」が、一つのヒントになるはずです。

 ブログという、一人で運営する媒体(複数人で運営する場合や「交流の場」として使われることもありますが、再三書いている通り、わたしにはそういう考えはない)に30kmの原付が向かってきた時、もうわたしには逃げ場がありません。逃げ場とは、すがる権力を求める、という意味ではなく、権力からの逃げ場です。つまり「あ、わたし権力じゃないか」ということに気づかざるを得ません。
 もう、権力はわたし一人しかいないのです。「みんな」は存在しません。
 わたしが最初の権力者です。

 岩明均『寄生獣』のラストシーンで、主人公シンイチは、瀕死のパラサイト後藤にとどめをさすか迷います。
 後藤は人食いパラサイトが自らを「合体」させて生み出した無敵の怪物で、共同体の砦たる警察や自衛隊は、このたった一人の怪物にまったく歯が立ちませんでした。シンイチは人間ですが、パラサイトの血の混じった「ハイブリッド」で、その右腕には、本来人類を食い滅ぼすはずだったパラサイト「ミギー」が寄生しています。彼は「たった一人」(正確にはミギーと二人)で後藤を追い詰め、ついに「人類の防衛」を果たす瀬戸際まで来ました。
 無敵だった後藤は、今やバラバラの肉片となり、なんとか再生しようともがいています。今なら殺すのも簡単です。
 シンイチは一度、「殺さない」道を選びます。
「誰が決める? 人間と、それ以外の生命の目方を、誰が決めてくれるんだ?」「そうだ・・・殺したくないんだよ! 殺したくないって思う心が・・・人間に残された最後の宝じゃないか」。
 後藤の再生は五分五分であり、シンイチは「天にまかせる」と思ってその場を去ります。
 しかし、立ち止まり、考えます。
「おれはちっぽけな・・・一匹の人間だ。せいぜい小さな家族を守る程度の・・・」。
 決めてくれる「誰か」はいません。「みんな」は不在です。大文字の他者は存在しませんでした。
 シンイチは戻り、後藤にナタを振り下ろします。
「ごめんよ・・・きみは悪くなんかない・・・でも・・・ごめんよ」。

 後藤は「悪」ではないし、シンイチも「善」ではありません。少なくとも、共同体的規範としての道徳においては。
 後藤は共同体の部外者(out-low)であり、シンイチも共同体においては周縁、むしろ「こいつもパラサイトだ!」「人間みたいだけど、ニセモノだ!」として絶好の「ユダヤ人」にされかねない位置にいます。
 シンイチが「殺さない」道を選ぼうとしたのは、「ユダヤ人じゃない、人間だ」という印としてです。彼は「間に立つもの」として、何度も人間としてのアイデンティティを問われてきました。そして「人間のために(人間であるために)」パラサイトと戦い、後藤を追い詰めたのです。
 その最後の場面で、むしろ「殺さない」ことが「人の道」だと気づきます。「人間であるため」の戦いは超-人間的(非-人間的)な力を使ってのものであり、戦えば戦うほど、ますます彼はマージナルになっていたのです。そして最後の一歩を踏みとどまる、それこそが「人間合格」の踏み絵になりました。
 そして最初、彼は「人間合格」を選ぶ。しかし、途中でその合格証を放り出す。
 彼が立つ場所、それは「わたし権力(に入れてください)」ではなく「わたし権力」という地点です。後藤とは、人間の<症候>であり、シンイチは遂にトラウマ的始原の場に帰ってきたのです。
 そしてナタを振り下ろす。大文字の他者の不在を引き受けた、最初にして唯一の権力として。
 人間をやめることで、人間になるために。

 わたしは彼のように勇敢ではありません。
 「あの人空気読めないよねぇ」と話をふられれば、笑って「ヤバいよね」と返すでしょう。心底不愉快なので、極力係わり合いになりませんが、一方で超然とする傲慢を自らに許せるほど余裕もない。
 共同体から逃げた罪、共同体に同じた罪、「空気の読めない者」に一対一で向き合った時、最後の倫理において、わたしにはこれらの罪を償う義務がある。
 その償いとは、彼・彼女にナタを振り下ろすことです。

 空気の読めない者よ、汝は無罪だ。よって、死刑に処す。

 それから後ろにいる「空気の読める」ヤツら、お前らは有罪だ!!


※1
 以下のエントリ。「壁」の意味や目的についてもこれらを参照してください。
「メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか」
「虚空に向かって書くからこそ丁寧に書く」
「なぜコメントの敷居を高くするのか」
 念のためですが、防壁が見えて、かつ「危険を承知」でコンタクトしてくれる人とは、何度か大変良い出会いをしています。

関連記事:
「人間のフリをする人間」
「サイボーグ・ファシズム」
「寛容さと共存の何が問題なのか」

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