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2007年07月25日

隔離地域に火を放て

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 隔離地域とは、「部落」的なものですが、いわゆる「部落」を問題にしたいわけではありません。
 隔離された者は「差別」の対象になりますが、一方で「被差別者」がいてもらうことで共同体を成立させる、という点で、共同体にとって有難い存在でもあります。その「恩返し」が「隔離地域」であり、ここにいると「あいつらは・・・」と陰口を叩かれる代わりに、地域内部にいる限り一定の安全を保証されます。
 いわゆる「部落」では、この辺りの力動さらに実際の権力システムに還流されていたり(自民党と部落解放同盟など)、いささか状況が複雑すぎます。そのため、ここでの議論では括弧に入れておきます。

 念頭においているのは、むしろ現代的な「マイノリティ」です。
 例えばセクシュアル・マイノリティには独特の「隔離地域」があります。こうした「隔離地域」も既に時代遅れになりつつありますが、それでも「部落」に比べればまだその功罪あいまった位置づけが見えやすいことは確かです。

 なぜ「隔離地域」を問題にするのか。それは「隔離地域」がスティグマを解放する場(一時の休息の場)として想定されているからです。
 サイボーグ・ファシズムは「潜伏」を重要なキーワードとしますが、この語はしばしば「本当」と「表面」の分離として受け取られてしまいます。しかし「潜伏」はまったく「真の姿の隠蔽」ではありません。この差異を析出するのに、「隔離地域」の「解放」的性質がわかりやすい参照点となるのです。

 まず、伝統的な「隔離地域」の構造を整理しておきます。
 これらの場所は、「秘密を抱えたマイノリティ」が、自らを解放する場、ということにされてきました。
 逆に言えば、「解放」を地域に囲い込むことによって、禁忌を禁忌として同定していたわけです。権力・共同体の維持と隔離地域は表裏一体となっています。「隔離地域」は被差別地域ではありますが、一方でその被差別性自体を担保に入れることで、一定の「特権(安全)」を得ていたわけです。
 60年代・70年代のレズビアン・ゲイ・ムーブメントでは、「クローゼットから飛び出し」「カミングアウト」することが称えられ、その結果、レズビアン・ゲイが堂々と「権利」を主張しまともに渡り合うようになりました。現在では、メインストリームで普通に暮らすLGBTIは「子供を作らない共稼ぎ、しかも『偏見』への反動からよく働きよく稼ぐ」という点で、絶好のマーケットともなっています。
 一方で、そうした「勝ち組」LGBTIに乗れなかった「相変わらず」の人々もいます。隔離地域は消えていません。商業的存続のために、観光地的に外部へ門戸を開きつつありますが、「囲い込み」と引き換えに安寧を得る、という役割は一定程度残存しています。
 ここで重要なのは、「負け組」LGBTIが単に社会適応性に劣っていたわけではない、ということです。
 「本当はみんな普通に暮らしたいのだけれど、できる人とできない人がいる」ではないのです(もちろん、単に「できない」という人も中にはいる)。

 スティグマとして指定されている「何か」があります。この「何か」は「普通に暮らす」ためには振り捨てなければならないものではありますが、一方で「何か」それ自体である「悦び」があります。
 一例を挙げれば、レズビアン・ゲイ・ムーブメントの盛り上がりに伴い、レズビアンにおけるブッチ-フェム・モデルが批判の対象になった時期がありました。ブッチ-フェム・モデルとは、いわゆる「タチ・ネコ」のことで、レズビアン・カップルではあっても、その中に「男役・女役」がある、という形式です。レズビアン・フェミニストたちは、これを「強制的へテロセクシュアリティへの悪しき追従」として批判したのです。
 確かに、レズビアンであるなら、必ずしもヘテロセクシュアルな形式を引きずる必要はありません。しかし一方で、正にこの「形式」自体、「強制的」に背負わされたはずのゴッコ的モデル自体が、人を惹きつけることがあります。しかし60年代・70年代のムーブメントにおいては、こうしたゴッコ的モデルはスティグマ化への敗北として、排除される傾向にありました。これは「隔離地域」からの「脱出」と並行的です。
 非常に興味深いことは、こうした流れの後で、「性同一性障害」なる言説が力を付けていったことです。もちろん、この言説自体はムーブメント以前からあったのですが、面白いことに、FtM(Female to Male 女性から男性へのトランスセクシュアル)の世界は、レズビアン業界と比較的連続性を保っています。つまり、もし「性同一性障害」の言説を額面通りに信じるなら、トランスセクシュアリティとは、セクシュアル・オリエンテーション(性志向 どちらの性別を性対象とするか)とは独立した問題であるはずで、ヘテロセクシュアルのFtMトランスセクシュアルとレズビアンとはまったく関係がないはずなのに、両者のカルチャーには明らかな連続性があり、人的交流も盛んである(というより、アナログに移行する人々が少なくない)ということです。
 要するに、トランスセクシュアリティには、「排除すべきスティグマ」として唾棄されたものが憑依している側面がある、ということです。「ブッチ-フェム・モデルがレズビアン的じゃないなら、ウチらレズビアンじゃなくていいよ。代わりにFtMと女ってことにするから」というわけです。
 余談ながら、このレズビアンとFtMの連続性に比して、ゲイメン・カルチャーとMtF(Male to Female 男性から女性へのトランスセクシュアル)の間には非常に激しい断絶があります。MtFがいわゆる「ゲイバー」に現れることはまずありませんし、「ハード・ゲイ」の世界では攻撃対象にすらされ得ます。
 その一つの要因には、MtFにはいわゆる「ニューハーフ」や「女装」といった形で、(狭義のゲイ・カルチャーから独立した)伝統的な受け皿があった、ということがあります。さらにMtFにおける「性同一性障害」言説は、伝統的な「ニューハーフ」「女装」からも分離する傾向が強く見られます。最も先鋭的な言説では、「ニューハーフとは職業名であり、ある意味『男であること』を売り物にするビジネスである。よって『性同一性障害』とはまったく相容れない恥辱である。女装など論外」とされます。こうした純化した抽象度の高い言説の扱い方は、逆説的にも「男性的」性質を帯びているところがまた興味深いですが、ここでの本論から外れるので一旦保留しておきます。

 重要なのは、「本当」と「表面」という関係それ自体が持つ力、「隠されていること」の引力です。
 「解放」を訴えるムーブメントがいかにPC的に「正義」であっても、ただひたすらに「本当」をむき出しにする、という運動からは零れ落ちるものがありました。彼・彼女らは必ずしも「落伍者」なわけではなく、むしろ「隠されていること」の悪魔的引力の方を選んだのです。
 さらにトランスセクシュアリティという現象で切り出すと、隔離地域の外でも逆転した「本当/表面」があります。つまり、例えば外見的・社会的に完全に女性として社会適応したMtFが、実は子宮を持っていない、といった「本当/表面」です。これらは、隔離地域の伝統的「本当/表面」と逆転しているようですが、ただ裏返っただけで構造的本質は変わりありません。
 様々な「本当/表面」があります。
 「普通の女に見えるけれど、実は女が好きだ」「普通の男に見えるけれど、実は女として生きたい」「普通の女として暮らしているけれど、実は染色体はXYだ」等々。そして「解放」の言説は、「実は・・」の後の部分を「真」とし、前の部分をスティグマとして捨象する運動でした。しかしむしろ、前の部分と相まっていること、「○○のようだけれど、実は・・」という構造自体の持っている引力があった。

 サイボーグ・ファシズムにおける「潜伏」を誤読すると、「実は・・」の構造を称揚しているように見えます。つまり、隔離地域を逆転しただけの構図です。
 しかし「潜伏」の意図するものは、まったく異なります。それは「実は・・」の後を捨象してしまう暴力です。「解放」の言説は「実は・・」の前を切り捨てましたが、サイボーグ・ファシズムは「実は・・」の後を切り捨てます。
 正確に言えば、「実は・・」の構造自体はありながら、その前項と後項が一致してしまうことが「潜伏」です。
 つまり「人間に見えるけれど、実は人間である」です。
 この「潜伏」には、必然的に「解放」がありません。前項と後項が一致してしまう以上、「仮面」を外しても何も起こらないからです。
 しかしこれは、「現象しかない」といったポストモダン的相対主義とは異なります。「実は・・」は残り、依然としてそこには「潜伏」という二重性があります。
 なぜなら「○○のようだけれど、実は○○」の「○○」自体が、常に既に二重性を帯びているからです。当事者ではなく、むしろ見る者において、「実は・・」という乖離の瞬間があるのです。

 わかりにくくなったので、具体的に考えます。
 「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」の後半で、30kmで走る原付の喩えを出しました。
 この原付、「バカ正直」は、最初から最後まで30kmで走っています。何も変化していません。
 しかし、見る者にとっての位置づけは変容していきます。最初は怒りの対象、単に目障りなものですが、じっと見ていると段々無気味になってくる。そしてある瞬間「これは<わたし>だ、わたしと全然違うのに、紛れもなく<わたし>そのものだ」という逆転が訪れます。
 前項と後項が一致するとは、原付が一貫して30kmで走っていることです。
 にも関わらず「実は・・」という局面があるのは、項目それ自体が最初から二重性を帯びているからです。この二重性は、見る者=人間が人間であるために必然的に背負っている二重性です。
 「解放」の言説、ひいては広義のリベラル民主主義とは、「実は・・」の前を捨てようという試みにより、項目自体の持つ二重性を隠蔽し、真に不可視の症候を排除する欺瞞にすぎません。一方、前項も後項も捨てず、「それはそれ、これはこれ」とする隔離地域的倒錯者たちもまた、同じ二重性に蓋をしてしまいます。なぜなら、彼・彼女らの快楽は、項目の安定に支えられた差異により備給されているからです。
 サイボーグ・ファシトとは、この症候の場自体に立つ者です。

 ラカンが『精神分析の四基本概念』で挙げている例で言えば、ホルバインの『使節たち』です(『大使たち』の訳が一般的)。
 これは描かれた「絵」ですから、最初から最後まで変化しません。しかしある角度から見た時、「無気味なもの」が浮かび上がってきます。そして一度それが目に入ってしまうと、「無気味なもの」以外のものとしてこの絵を見ることができなくなります。「それ」は最初からそこにあって、今も「それ」であるままなのに、紛れもなく何かが変化している。

 サイボーグ・ファシズムは「人間から人間を作る」思想です。
 その「潜伏」とは「人間そっくりだけれど、実は人間」という潜伏です。「実は・・」の本性が、その前後の差異にあるのではなく、項目自体に潜んでいることを暴力的に突きつけるための装置です。
 サイボーグ・ファシストは、物質として、人間たちの症候として立ち向かう狂気=侠気でなければなりません。

 それゆえ、第一の要件として、「人間そっくり」でなければならない。
 ○○に見えない、最初から別物に見えてしまう、というものはサイボーグ・ファシストではあり得ない。「実は・・」の前でも後でも、一つのもの、まったく平凡であるがゆえに、同時に圧倒的に無気味であり得るものでなければならない。「隔離地域」に匿われるような醜悪な倒錯者など、論外です。
 潜伏に解放の時はありません。明らかにすべきものなど、何も残っていません。
 よって、いかなる形でも「実は・・」の前後の断絶に想像的に依拠するものたちを、後ろから撃つ。どちらの方向からにせよ、「隔離地域」で「実は・・」の差異を愉しむ倒錯者たちを焼き滅ぼす。
 その場がなければ「解放」されない、「潜伏」もままならない者は、端的に弱者であり、弱者が弱者のまま受け入れられることなどない。サイボーグ・ファシストは、「強者」どもより早く引き金を引く。

 隔離地域に火を放て!
 多くの者は、焼かれ滅びるだろうが、生き残った者はその火を胸に携え、人間たちの世界に潜伏せよ。
 秘められた火は人間たちにとって、時に地獄の業火となり、時に導きの灯火となるだろう。


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