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2007年07月25日

『民族と国家』ナショナリティ・エスニシティ・パトリ

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『民族と国家―グローバル時代を見据えて (PHP新書)』 松本健一 『民族と国家―グローバル時代を見据えて』 松本健一

 「webは「砂の文明」である」「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」で題材とさせて頂いた 『砂の文明・石の文明・泥の文明』の松本健一による「民族」論。『砂の文明・石の文明・泥の文明』とクロスオーバーしつつ補完し合う部分が多いため、併せて読むとより良いでしょう。ナショナリズムについて、公平かつ冷静に理解しようとするなら、(巷に溢れる大衆的「愛国論」や上辺だけの左翼言説と異なり)良き導きとなることは約束できます。
 氏はネーション(国民=民族)の実在をナイーヴに信じる「ナショナリスト」ではありません。ネーションとは、ネーション・ステート(国民国家)の形成と共に遡及的に想定される「ルーツ」であり、例えばDNA等により物質的に還元できるものではありません。
 ではネーションのリアリティを否定しているのかというと、そうではありません。ネーション・ステートの特殊近代性、ネーションの物質的不在、両方を認めながら、その「あいだ」に何かを見ようとする。それが「文化」、あるいはミーム(文化的「遺伝子」)、エスニシティ等です(※1)。
 松本氏が軸足を置くのは一貫してこの「あいだ」の文化的領域です。いかにも「泥の文明」的・日本的と言ってしまうとそれまでですが、氏の語らいは浪花節「愛国者」的な心情一辺倒のものでも狂信的言説でもなく、分析性と政治性を兼ね備えたものです(※2)。
 例えばベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』についても、ネーション・ステートが近代的枠組みであり、ネーションにはフィクショナルな側面が色濃いことを認めつつ、まったくのフィクションとして退けようとはしません。ネーションはフィクショナルだが、それが「何か」と呼応し、実在性を持つことがある。そしてナショナリズムが有効性を発揮するのは、この呼応が機能している時だけだ、という洞察があります。

 誤解を承知で模式化してしまうと、

物質 - 文化 - ネーション - 文明

 というラインがあり、この「文化」的<実体>にネーションが訴えることが出来た時、ネーションは実質を備え、ナショナリズムは「正常に」機能する。竹内好さん等は「ナショナリズム一回有効説」なるものを唱えていたそうですが、その微妙なユーモアもあいまって、ナショナリズムの核心を鋭く捉えているように思われます。
 ネーションはただ空疎な想像物なのではない。しかし、ネーション・ステートの時代の隆盛は過ぎ去り、今やステート内部のエスニシティや、宗教へのidentificationが強まりつつある。
 エスニシティへのidentificationとは、言わばパトリオティズム、郷土愛的なものです。松本氏は、ナショナリズムの核には本来素朴なパトリオティズムがあり、それが近代的枠組みで疎外され、「失われた故郷」を求めるナショナリズムとなった、と論じています。おそらく、疎外されざる素朴なパトリオティズムであれば、近代ナショナリズムに見られたような暴走、あるいはナチズムに見られたような過剰なまでの「物質的根拠」の追求はなかったはずだ、と考えているのではないでしょうか。

 以上の議論が平易でかつバランス感覚に秀でていますが、疑義を差し挟まざるを得ない点もあります。
 一つは、純粋な「パトリ」など存在しない、ということです。正確には、それは「実在を想定せざるを得ない何か」ではあり、紛れもなく人々を導き、機能してはいるのですが、「はじめにパトリありき」と言うことは、やはりできない。
 ネーションが強く求められたのはどういう時ですか。人々が「疎外」された時です。ベトナム人民がパトリオティズムを発揮したのはどういう時ですか。それが奪われそうになり、踏みにじられた時です。
 パトリは失われつつある時にはじめて遡及的に想定され、「実在」として機能します。そして明白に「失われた」諦念が人々に響いた時、最も強くその「実在性」が発揮され、時に怪物的暴走へと至るのです。

 松本氏は、柄谷行人氏がネーションを想像の共同体とすることも批判します。
 この批判は極めて興味深く、読者には柄谷行人さんの『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』と併読することを強くお薦めしたいです(※3)。両者は意見として対立するだけでなく、分析の構図自体がズレている部分がありますが、単に「噛みあっていない」のではなく、切り取る構図のズレ自体が、両氏が何を取り出し何を捨象しているのか、わかりやすく浮き彫りにしてくれます(多くの「右派」言説には、柄谷と併読するような分析的価値がない)。
 ただ、松本氏の最終的スタンスにはむしろ共鳴したいのですが、ロジックとしてはいささか的を外している感もあります。柄谷氏はネーションに対抗しようとはしていますが、それを「ナメて」はいません。柄谷氏がネーションを想像の共同体であるとするのは、正に想像的であるからこそ力を持ち、「実在」以上に「実在」である、と看破しているからです。
 ラカンは「現実性はフィクションの構造を持つ」と言いますが、フィクショナルなもの(可能的なもの)は「現実」を覆い隠すのではなく、それを構成するものです。柄谷氏は「フィクショナルなネーションを唾棄せよ」などと言っているのではなく、「フィクショナルであるがゆえに『リアル』なネーション、これを警戒せよ」と主張しているのです。
 一方でネーション、あるいはその向こうでより固く信じられているパトリ、これらが「実在」かといえば、やはり疑わしいと言わざるを得ない。しかしそれはパトリの否定なのかというと、まったく違って、フィクショナルな性質を帯びているからこそ、それはますます実在的であり、力を持つ、ということです。
 柄谷氏は、ネーションの「フィクショナルな実在性」を認めた上で、かつその「向こう」に行こうとする。
 松本氏は、ネーションが「フィクショナル」なものになってしまったのなら、その「前」のパトリ的なるものを信じるしかない、とする。
 柄谷氏はフィクショナルな実在性を認め、かつ「向こう」が依然統制的理念にすぎないことを認識し、かつ推進しようとする点で慧眼ではあります。しかし理念としての「世界共和国」的なものはあまりにナイーヴであり、少なくともわたしにとって「未だ見ぬパトリ」にはなりえません(※4)。
 一方で、松本氏の「パトリ」についても、手放しで賛同する気にはなれません。少なくとも彼の考える日本的パトリは、わたしの故郷ではありません。私事になりますが、わたしには物理的故郷と呼べるような土地もなければ、家族も実際上いません(親・親族とはほぼ絶縁、兄弟は全員死亡)。暖かい「郷土」よりはまだ、狂的ネーションに惹かれます。
 「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」でも触れましたが、「文化」的領域にidentifyする人々がいる一方、そうではない場所により深く同一化する人々も存在するのです。心の底から「文明」を優先する人たちというのが、実在するのです。
 パトリ的なるものが極めて深く人心に根付き、かつ「多様な普遍性」を持つことを認めるにやぶさかではありませんが、そこから漏れる人々というのも確実に存在します。

 もう一点、松本氏が過小評価していると思われるのが、「パトリ」のさらに向こう、物質の領域です。
 言うまでもなく、わたしたちがidentifyするのはDNAなどではありません。少なくとも、生物学の研究者で、文字通りのDNAにパトリ的なるものを見る、という頓狂な人はいないはずです。プログラマーはコンピュータに過剰な期待も恐怖も抱きませんし、産婦人科医はおそらく女性性器それ自体にエロティックなファンタジーを抱かないでしょう。パトリが力を持つ時と同様、物質が人々を動かすのは、むしろそれが手触りのある(イマジネールな)「物質」を越えて、「特別な何か」が賭けられる時です。
 具体的には、ナチズムにおける「人種」を想起すれば良いでしょう。「人種」は「民族」のさらに向こうに想定される。「民族」が「文化」や言語共同体、ミーム(文化的遺伝子)といった「あいだ」の領域にあるとすれば、「人種」とはさらにその向こうに「物質として間違いないもの」として期待されるものです。
 もちろん、「人種そのもの」など存在しません。しかしわたしたちには、こうした物質を想定しないでいられない時、本当に信じてしまう時というのがあります。「人種」が強烈なのは、想定物であるにも関わらず、まったく選ぶ余地がない、という属性を紐付けられている点です。
 ナチスが「人種」に捉われたのは何故でしょうか。パトリ喪失者としてネーションに帰ろうとしたのに、帰るべきネーションすら頼りにできなかったからです。ネーションに「一発逆転」を賭すこともできないほど、追い詰められていたからです。
 その極北には、「選べるもの」をすべて放棄してしまう、という領域があります。あらゆる代表者を否定し支配者にsubjectする閾です。
 これは一見、リベラル民主主義の対極であるようで、実際政体としてはわかりやすく対立軸を構成するのですが(そして第二次大戦戦勝国はこの軸を正義と悪の対立というプロパガンダに使い続けた)、ナチズムとは単にリベラル民主主義の反対ではなく、その症候そのものです。アングロ・サクソン的な「選択の自由」というフィクション、「個人」というフィクション、これらの「想像的実在」を構成するために、切り捨てざるを得なかった汚点そのものなのです。
 それは「選べないことを選ぶ」という絶対矛盾の領域です。スピノザを振り返るまでもなく、わたしたちが何かを「選んで」いる、というのはパンとサーカス的幻想に過ぎません。アングロ-サクソン的「自由」とは、因果の連鎖という楔、人が背負う被投企性という呪いから目を逸らした悪しき楽観主義でしかありません。わたしたちは、何も選んでなどいないのです。
 しかし、選べていないものを「選んだ」と叫ぶことはできる。これはある意味「ウソ」なのですが、与えられず自ら選び取る自由とは、この極限においてより他にないのです(※5)。

 サイボーグ・ファシストはもちろん、パトリを信じない。「文化」を信じない。わたしたちは母を殺す(※6)。
 そしてもちろん、アソシエーショニズムなどパトリ以上に一笑に付す。パトリを保存したまま、最も上澄みの連帯を謳うものは、危機にあって砦となるとは到底思われない。「アソシエーショニスト」のほとんどは、間違いなく故郷に逃げ帰るだろう(※7)。
 そうした点で、パトリオティズムには、少なくともマルキシズムやアナキズムよりは圧倒的な希望を見出せる。しかし、ある種の人々にとって、パトリはあまりにも遠く、ネーションは大衆的リベラル民主主義者たちにより占拠されている。

 サイボーグ・ファシストは、物質的符丁を携え、散開する。
 わたしたちは、砂の民である。


※1
 松本氏の「文化/文明」の捉え方については「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」を参照してください。

※2
 松本さんは、おそらく右翼からも左翼からも叩かれる人だと思いますが、それは「中立」だからではなく、右翼以上に右翼であり、左翼以上に左翼だからでしょう。良き左翼に時々見られる知性、良き右翼に時々見られる政治性と力強さ、これを兼ね備えた希有な人物です。

※3
 「『世界共和国へ―資本=ネーション=国家を超えて』 柄谷行人」参照。

※4
 これはNAMの無残な失敗を批判しようというのではありません。個人的に、彼のNAM実践については高く評価したいと考えています。NAMの前途に多大な困難が待ち受けていることは最初からわかっていたことであり、それでも行動に移した、キチンと恥をかいた、というだけ(多くの大学人どもと異なり)、柄谷氏の「本気」を証明しているとすら言えます。「でもやるんだよ!」の精神です。(柄谷氏自身がややネガティブに言い訳がましくNAMを振り返っているのは残念ですが)
 彼のNAM運営について、ファシスト呼ばわりする市民派フェミニストを見かけたことがありますが、むしろ賛辞として受け止めて頂きたい。ご本人はやはりファシストとは言われたくないでしょうけれど・・・。
 とりあえずわたしは、「ファシスト柄谷」というフレーズを目にして、「これは柄谷をもう一度読み返さなければ」と思い、「やっぱり市民派フェミニストは皆殺しにするしかないね」と改めて確認できましたが。

※5
 「ムッソリーニ、人種、自由」参照。

※6
 「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」参照。

※7
 戦前の社会主義者の多くが、日米開戦に(日中戦争の泥沼的後ろ暗さを拭う)「解放」を見出してしまったことを想起されたい。

関連記事:
「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」
「『北一輝論』 松本健一」
「『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』 松本健一」
「サイボーグ・ファシズム」
「ファンタジーとファシズム」

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