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2007年07月27日

掃除革命的グラフィティ・アート

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 DesignWorksさんの「スプレーを一切使わない、街にも環境に優しいグラフィティアート」というエントリが面白いです。
スプレーを一切使わない、街にも環境に優しいグラフィティアート

使用しているのはスプレーではなくて、靴磨きのブラシや石鹸などの掃除道具です。(・・・)一部だけとは言え、とりあえず綺麗にしているので、ラクガキ等の行為にはあたらず、法律上は問題ないみたいで国は対処に困っているそうです。

 つまり、何らかの塗料等を「加える」のではなく、付着した汚れを「取り除く」ことにより文字や絵を描いているわけです。
 法の抜け道的に「うまいっ」というだけでなく、文字の本性を絶妙に抉出したアートです。
 そもそも、文字とは「削り取る」ものです。粘土板に刻まれた楔形文字を想起すればわかりやすいですが、もっと言えば「無人島に漂着した人間が、日にちを数えるために木に彫り付ける刻印」です。
 物理的特性ことだけを言っているのではなく、象徴化=言語化とは、何かが「無い」ことを表現するものです。無定形の世界(として遡及的に想定される不可能なモノ)に線を入れることです。「ある」ことを言うだけなら叫び声でも構わないわけですし、フロイトのFort-Daにおいても、悦びが見出されたのはむしろ糸巻き車の「消失」においてでした(※1)。
 「無い」もの、それは過去です。
 文字は「今ここ」にあるのですが、それは「何かがあって、今はない」ことを示すものです。カレンダー代わりの刻印では、「過ぎ去ってしまって今はもう無い」時が文字という形で「いまある」わけです。
 ただし、文字は単に何かの痕跡であるのではなく、それが自らが痕跡であることを知っている痕跡です。
 足跡も「痕跡」ですが、文字とは異なります。文字とは、その痕跡が何者かによって解読されることを待っている痕跡です。正確には、時に「解読されない」ことを狙う場合もあるわけで、重要なのは「解読し得る誰か」の想定が常にある、ということです(※2)。

 と、いかにも現代思想くさいベタな読解をしてみたのですが、この「落書き」の面白さは、そんな大学一年生ライクなところより、「掃除」という点にあるのでしょう。
 「革命家は制止を振り切ってゴミを拾え」の繰り返しですが、掃除とは、ヒトが世界に鍬を入れること、空間を「所有」という人間的枠組みで文節化する第一歩です。
 一見「良い子」で「道徳的」な掃除ですが、根底にはエロティックなまでの暴力=愛が秘められています(※3)。
 このグラフィティアートには、「制止を振り切って掃除」というラディカリズムが良く表れています。
 掃除の暴力性は、実は既に法的に囲い込まれていて、例えば粗大ゴミとして出されている電化製品等を拾ってくると、占有離脱物横領なる罪に問われてしまう可能性があります。権力もバカではないので、掃除やゴミ拾いが密かに革命的であることを察知しているのかもしれません。しかし、さすがにトンネルの煤払いでは文句も言えないでしょう。

 欲を言えば、さらに反転させて、図像や文字の部分を「拭い取る」のではなく、一定の範囲を徹底して清掃し、かつある部分だけを「掃除し忘れ」たりするともっと面白いです。楔形文字から活版印刷に進化です。
 もう、勝手にキレイにしたことが「イケナイ」のか、最後までキレイにしなかったのが「イケナイ」のか、訳わからない状態です。
 図像や文字自体には、変にメッセージ性がない方がラディカルですね。「落石注意」とかだと、意味不明すぎてオトコマエです。

『グラフィティ・ワールド』 ニコラス・ガンツ NicholasGanz R.I.C.出版 『グラフィティ・ワールド』 ニコラス・ガンツ

※1
 Fort-Daとは、「いないないばぁ」のようなニュアンス。子供が糸巻き車のオモチャをベッドの向こうに投げて、糸を引っ張って取り戻す、という遊び。
 従来、こうした遊びは「制御する」ことに悦びを覚えている、とされていたが、むしろ「<無い>がある」、という象徴的次元の獲得こそ核心である、とフロイトが閃いた。

※2
 書字と「想定される誰か」については、以下のエントリ参照。
「なぜコメントの敷居を高くするのか」
「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」

※3
 「お掃除」が道徳規範的に推奨されるのは、掃除の暴力性を囲い込み、飼いならそうという営みから来たものでしょう。
 一般に、ある行為を支配下に置こうとした場合、有効な方法とは、それを禁止することではなく、むしろ「寛容さ」により受け入れ、制度化してしまうことです。「掃除は大変良いことです、ただしガイドラインには則って下さいね」というわけです。
 真の闘争とは常に、ルール内での勝敗ではなく、ルールの決定権争いにあります。ビジネスの世界を見れば自明でしょう。
 翻せば、既存のパワーに対抗しようとする場合、「禁止」を破って「反抗」するのは一番愚かな方法です。一見「反権力」なようで、パワーの定めた「禁止の禁止っぷり」に見事に沿ってしまっているからです(「バカ正直こそ最も危険な反権力分子」参照)。

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