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2007年07月16日

webは「砂の文明」である

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『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松本健一 『砂の文明・石の文明・泥の文明』 松本健一

 松本健一さんの著作の中でも、超一級に面白い文明論。
 非常に大雑把に言えば、ヨーロッパ的「石の文明」、中東・中央アジア的「砂の文明」、東アジア的「泥の文明」という枠組みを立てた上で、各文明がいかなる性質を持ち、「文明の衝突」なるハンチントン的言説がいかに欺瞞的かを論じ、かつ「泥の文明」における日本を考察する、という内容です。
 こうした枠組みが模式的であり、十把一絡げ的であるのはもちろんですが、捨象があってこそ思考は進められる以上、仮構であれ「叩き台」を提出することは極めて重要です。加えて、松本氏の議論は平明かつ説得力があります。

 石の文明とは、「外に進出する力」です。
 これは、表土の乏しい土地における牧畜という生活様式に由来します。牧畜は広大な牧草地を必要とし、生産力を上げようとすれば「外に出て行く」しかありません。
 また、貧しい土で農作物を得ようとすれば、まず土を作る、というところから始めないといけません。豊饒な東アジアモンスーン地帯にあっても「土を作る」ことは大切ですが、北欧などでの「作る」労力はこの比ではありません。以前にテレビで、岩だらけのアイルランドの離島の人々が、石垣を築いてまず飛んでくる砂を集めるところから「農業」を始めるのを見たことがありますが、こうした世界においては「自らの力で築く」意識がイヤでも向上することでしょう。オランダなどは土地そのものが「人工」です。松本氏は、いわゆる「フロンティア・スピリット」もこうした精神に由来するのではないか、と推測しています。

 砂の文明とは、「ネットワークする力」です。
 石の世界以上に不毛な砂の大地にあっては、移動と遊牧が生活の基本になります。砂漠では植物すらが移動します。遊牧と隊商交易を基盤とする人々にとって重要なのは、ネットワークと情報です。どこで何が高く売れるか、そして移動ルートの交易権。こうした論理レベルの「財産」が重んじられます。

(・・・)キャラバンが通っていく砂漠上のオアシスや井戸も、その部族国家の財産となる。(・・・)砂漠の民にとっては砂の土地ではなく、この交易権とそのルートが国家財産になるのである。

 『砂の文明・石の文明・泥の文明』では、『アラビアのロレンス』の一場面が取り上げられています。
 ロレンスが道案内のアラブ人と井戸の水を飲んでいると、突然、案内の男がライフルで撃たれる。撃ったのは別部族の男です。「井戸の水を勝手に飲んだから殺した」。しかし、ロレンスも同じく水を飲んでいます。「お前はゲストだから殺さない」「しかし、土産など何も持っていないぞ」「いや、お前は情報という土産を持っている」。
 映画の話ではありますが、ここには砂の文明の性質が良く表れています。ものに決まった値段などなく、交渉力がものを言う。情報と遊撃性に秀でるものが勝利する。ブッシュは「テロ・ネットワーク」の根絶を訴えましたが、そもそも砂の文明とはネットワークそのものです。
 また『千夜一夜物語』は、「面白い話を続ける限り、殺さない」物語です。それほどまでに、「面白い話=情報」が値打ちを持つのです。

 泥の文明は、「内に蓄積する力」。
 水の豊かな東アジア地帯、人間が手を加えないでも「自然の恵み」があり世界です。「恵み」は(時に荒ぶるものとなるものの)水と泥からやって来ます。この世界にも、もちろん「人工」の知恵はありますが、それは「自然」の力を引き出す知恵を主とするものです。

 「内に蓄積する力」にあっては、ヨーロッパ・アメリカ文明がプロダクト・イノベーションをしたのに対して、いわばプロセス・イノベーション(生産工程における技術革新)をした、と規定することができる。
 つまり、アジアの農耕社会は三千年来、隣の民族、隣の村落と、山や川をへだてて共存することを強いられている。その結果、「外に進出する」ことは無理で、同じ土地に何百年なく住みつづけている。としたら、そこでのイノベーション(技術革新)は、品種改良、品質管理、そして工程上の改善・改良といったかたちをとらざるを得ないのである。

 こうした定住性の強い世界にあっては、石の文明や砂の文明以上に相互扶助性と「和を乱さない」相互規制が発達します。土地が豊かなだけ、人々は地に縛られ、稠密化する技術は発達しても、「抜き出た」行いは諌められます。

 誤解を恐れず模式化をさらに進めるなら、石=象徴的なもの、泥=想像的なもの、砂=現実的なもの、あるいは、石=父、泥=子、砂=精霊、でも言えるでしょうか。
 松本氏は、当然ながら「泥」の立場を中心に論じているのですが、気になるのは「砂」です。

 ナイーヴではありますが、砂の文明の性質からwebを連想しないではいられません。
 もちろん、現実のwebには泥や石の様々な思惑に彩られており、最終的には物理的インフラに依拠します。しかし、その精神性には極めて「砂の文明」的な要素が見出せます。ネットワークの歴史は「いかに物理的制約を無化するか」という命題に牽引されてきたわけですし、そこで育まれた気風も、大地から自然と芽生える力に頼るというより、何もない場所から何かを生み出す、あるいは位置づけや組み合わせの妙から力を得る、といった性質が強く見受けられます。
 「砂の文明」から発して栄えた宗教にイスラームがありますが、大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」で触れた通り、その力は抽象度の高さ、「場」への依存性の低さにあります。砂の文明、イスラーム、webには、通底する何かがあります。
 webに限らず、現代の都市生活者には「砂」的な性質が強くなっています。もちろん、東京は田舎者の集まりで、日本は相変わらず百姓の国ではあるのですが、そうした共同体的絆から切断され、行き場を失った人々も少なくありません。
 そしてポール・ヴィリリオが指摘する通り、都市とは移動そのものであり、速度こそ都市における価値です。東京で働く人なら、片道一時間程度の通勤は普通でしょう。往復二時間、一日の12分の1を移動に費やしています。睡眠時間を除けば、さらに割合が増えます。何かの調査で、通勤時間が増えるほど「有効活用」しようとする割合が増加する、というのを目にしたことがありますが、それも当然の話です。初めは拠点と拠点の「間」という認識だったとしても、あまりに生活に占めるウェイトが大きくなれば、移動そのものを一つの「場」として適応するより他にありません。モバイル文化が栄える理由の一つも、ここにあるはずです。
 それでも、土地にしがみつき和を重んじる「泥」的精神が圧倒的に優勢なのは間違いありません。少なくとも日本というこの土地で、「砂」が「泥」を数において逆転する、という状況は想像しにくいでしょう。
 しかし「砂の民」にとって、大切なのは固定的な土地ではありません。地において利を失っても、「つながる」ことさえできれば「砂の民」は生き抜けるのです。故郷を持たず、情報と面白い話を携えて、遊撃的な口八丁手八丁を繰り返す。匈奴が漢民族を何度となく攻め入ったように、「砂の民」には砂漠的戦法があります。
 ちなみに、「プロジェクトからプロジェクトに渡り歩く」開発者という人種の労働スタイルも、どこか遊牧的です。もちろん、実際の現場では「泥」的人間関係や「石」的秩序が依然強力に支配しているわけですが。

 松本氏の軸足はあくまで「泥」にあり、その価値観にも一定の共感は持ちますが、個人的には「砂漠の文明」にこそ最も惹かれます。サイボーグ・ファシズムで訴えていることもそういうことです。そして「泥」では決して「石」に勝つことはできない、「石」を越えるには「砂」の活用こそが鍵になる、というのが今のわたしの考えです。
 この点については、本書冒頭の示される「文化と文明」というフレームワークについての考察の中で、再度触れようと思います。


関連記事:
「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」
「『北一輝論』 松本健一」
「『日本の失敗―「第二の開国」と「大東亜戦争」』 松本健一」
「サイボーグ・ファシズム」
「ムッソリーニ、人種、自由」
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