待つ自由、諦める自由、丸神頼之の選択
デフォルトのコマンドが ”待つ” 女である。 電話はかかってくるもの、メールは受信するもの、 出会いはやってくるもの、別れもやってくるもの。 リンゴが地面に落ちるのと同じくらい当たり前のことだと思っている。 以前これを知り合いに真顔で相談したら、 「ハイハイ自分がモテるって言いたいんでしょ」 と言われてものすごくびっくりした。
「待つ」ことが苦手なワタクシとしては、この記述を見た最初の反応は「待てるんだ、すごいなぁ」という素朴極まりないものだったのですが、よく考えてみると「待つ」のパワーは、そんな生易しいものではありません。
犬のしつけでも、最初に教えるのは「待て」です。これができないと次に進めません。すべては「待て」から始まるのです。
「待つ」ことは能動的にアクションを起こすことではありません。至って受動的です。
しかし「待つ」は単に「何もしない」のではなく、能動的アクションの否定であり、「何もしないでいること」を一アクションとして登記することです(「何もしてないわけじゃない、待っているんだ」)。つまり「荒野に一本の線を引くこと」であり、象徴化です(※1)。だからこそ「待て」は躾=象徴化の第一歩になるのです。「食餌」というアクションを宙吊りにすること、否定することで食餌を食餌として文節化すること、「まだ達せられていないが、世界にあるもの」として取り込むこと、それが「待て」の効果です。
とはいえ、一旦文節化された世界にあっては、「待つ」ことが受動的印象を与えるのも事実です。「待つ女」が「アクションを取るまでもない(モテる)者」として受け取られたのは、一般に著名はアクションに紐付けられがゆえに、「待つ」ことだけで同じ成果が得られるなら、著名を晒さないでいられる方が有利である、という認識から来ています。これはべにぢょさんが「デフォルトのコマンドが ”待つ”女」だから、というより、「女のデフォルトのコマンドが ”待つ”」(とされている)ことに拠るでしょう。女は「待つ」効果、「ズルさ」をよく知っています。だからこそこういう認識が先に立つのでしょう(もちろん、男だって「待つ」ことを有効に活用することはできますが)。
しかし、これでは「待つ」のせいぜい半分についてしか考えられていません。
「待つ」は、単なるアクションの留保なのでしょうか。
確かに、それが一要素ではあります。犬が「待て」をしている時、それは「食べない」、つまり「アクションを起こさない」ことです。
しかし「待ってるからね」が生み出すより狡猾でエロティックな力、それは「アクションを起こさない」に由来するのではありません。
この違いは、「待つ」の反対を考えてみればすぐわかります。
犬の「待て」では、「待つ」の反対は「行動する」です。
一方「ずっと待ってるからね」において、「待つ」の反対は「諦める」です。「待ってるからね」は「諦めないで、ずっと待ってるから、忘れたらタダじゃおかねぇぞ」という圧力の表明なのです。

「待つ」の真価が抉出されるのは、「諦める」との対比においてです。
「諦める」と「待つ」。目に見える行動という点において、両者には何ら差異はありません。
「諦めないで、待ってるからね」と言ったところで、彼女は何かアクションを起こすわけではありません。待とうが諦めようが、積極的行動という点では「何もしない」だけです。
にも関わらず、言われた者は負い目を背負うことになる。彼は何も「負って」いません。だからこそこの「負い目」はどんな負債よりも重いです。
「待つ」は、「諦める」から目に見えるなにものも減算しないゆえに、言わば<無>を彼の貸方に記入します。それは零度の負債であるがゆえに、返済方法の見つからない借入金なのです。
「諦めずに待つ」。この無気味でエロティックな振る舞いは、一体何を示すのでしょう。
「待つ」は象徴経済への参入、言わば<資本 = 始源の借金>です(※2)。その後は売掛金やら貸倒引当金やらといった通常の勘定、つまり「行動」が交わされます。多くの人たちは、この<内部>しか目に入らないし、それを「現実-性」のすべてだと信じています。実際、<外部>がむき出して「在る」ということはなく、<内部>を通じて遡及的に思考するより他にありません。
では「諦める」とは何でしょうか。
強いて言えば「破産」、象徴経済からの撤退です。
「諦めた」と言うのは簡単ですが、この言葉には原理的に「言えば言うほど言い得ない」ところがあります。「忘れる」のと似て、「諦める」は「諦めた」と言うだけでは諦めたことにならない、むしろ諦められていないことを主張してしまっている、とういことです。メタ言語は存在しません。
アクションの留保という意味で「最初の一歩」であったように、ここでもまた「待つ」は、「それとして選択できる限界の行為」「零度のアクション」です。ウトウト舟を漕いでうっかり向こう側に行ってしまいそうになり、ハッとして「まだ諦めてないよ、待ってるよ」と口にする薄明。自分が死んでいことに気づかない死人。
視点を変えてみると、目に見えるアクションとしては零度である「待つ」、それがフックするのは「時間」です。
「待つ」が原野に一本の線を入れ、象徴経済をスタートさせた時、それが世界に導入したのは「流れる時間」です。
だから、「ずっと待ってるからね」が刻み込む負債、それは<無>ではあるのですが、なぜか利子がつきます。一円も借りていないのに、待たれれば待たれるほど負債が膨らんでいきます。
「まだ諦めてないよ、待ってるよ」という薄明とは、しぶとく債務者を追い回す回収業者です。回収業者は死を許しません。「諦めずに待つよ」とは、「諦めるな、待ってるから」でもあります。「待つ」の効果とは、「ご破算はなしよ」という囲い込みでもあります。
わたしたちは誰でも、用件もわからず<ここ>に呼び出されました。
用件が何だったのか、<わたし>は何者として呼び出されたのか、大変気になります。しかし、神様は何も言ってくれません。逆説的にも、この「答えのなさ」のお陰で、<わたし>は「会社員」「母親」「プログラマー」等々を浮遊する貨幣であることができます(※3)。それが「行動する」次元(現実性)を生きるということです。
しかし、これらの小賢しい「あれやこれやの取引」には、どこか「待ち時間の暇つぶし」的なところがあります。松本大洋『ピンポン』のスマイルは「卓球なんて、死ぬまでのの暇つぶしだよ」と嘯きます。潰す暇とは、荒野をただ枠で囲って「ここは空地である」と宣言したような零度の時間、「待つ」時間です。
わたしたちは常に待っています。何を? 「諦める」地点を。
「諦める」は端的な「死」とは限りません。何かが決定付けられる点、思考の彼岸、<わたし>がモノへと失墜する地点です。例えば「出会い」。
もちろん、究極の「出会い」とは「君はコレだよ」という最後通告であり、<死>との出会いですから、出会ってしまっては困ります。うまく「出会い損ねる」必要があります。お陰で「出会いがないよね」「出会うためには」等々の際限のないお喋りを愉しむことができます。
このような「待ち」が通奏低音として流れる世界、そこへ呼び出されたのは、愛=暴力の力によってです。「ハイハイ自分がモテるって言いたいんでしょ」という「通俗的解釈」には、図らずも真理を言い当てている面があります。待てる人、それは主の愛を疑わない人です。
二つのスタンスがあります。
スマイルは「卓球なんて暇つぶし」と言いながら、それでも卓球に何かを賭けている。具体的アクションとして世界の内部に登記されているものに、<外部>をうまくバインドしている。「諦める」次元を視野に入れたとき、「卓球」は「売掛金」や「買掛金」と一緒で、ただの虚しく貸方と借方を移動するパズルのピースでしかありません。しかし、「死ぬまでの暇つぶし」として選ばれた「卓球」は、既に「卓球にあって卓球以上のもの」になっています。スマイルは、自らを世界に呼び出した愛=暴力への対処として、世界の中に愛=暴力を再演する方法を見つけています。
彼は卓球という「暇つぶし」を通じて、世界の内部にある何かを「待って」います。つまり「ヒーローの復活」です。ヒーローが復活したところで、世界に呼び出されてしまったという不条理が解消するわけではないのですが、人はそうやって、自らの負った愛=暴力を、世界の内部にある「何か」にピン留めして生きるのです。
一方で、待てなくなってしまう人がいます。
岩明均『七夕の国』の丸神頼之は、「手が届く」と言われる物質を抉り取るサイコキネシスのような能力を持った者です。一方で、彼は「窓を開いた」者でもあります。「窓を開く」とは、彼の郷里の者のいくらかが共通して持つ夢を見る力で、言わば「迎えに行くから、ずっと待っていなさい」という「刷り込み」が行われることです。つまり「諦めるな、待て」です。
丸神頼之は、「手が届く」能力だけを持った「お気楽な超能力者」高志に話をします。
頼之「お前がヘラヘラしていられるのは「窓の外」を知らんからだ」
高志「はぁ・・・やっぱ、そうなんすかねえ」
頼之「だが、だからこそ自由だと言える。丸神の里に暮らすものはむかしから・・・心の底ではいつも自由になることを願いながら、結局は自らを縛りつけせまい谷間から出ようとしなかった。自由になれぬのは哀れなことさ」
高志「いや、ほんと! そう思いますよ」
頼之「ふん・・・」
「自由になれるのは哀れなこと」という言葉に、高志は同意しますが、ここでは何かが擦違っています。だから頼之は希望なさげに鼻で笑うのです。頼之は知っています。縛り付けられ、自由になれないのは不幸だが、一方で「縛り付ける」ものがなくなったとき、そこで自由がどうなるのかを。「神がいなければ、許されるものなど何もない」のです。
それでも、彼は自らの不自由、「諦めるな、待て」という枷に疲れ果てています。この枷を嵌めたもの、彼を世界に呼び出したものは、物語の中で「カササギ」と呼ばれる宇宙人?に託されています。
頼之「おれには・・・どうしても許せんヤツがいる。人の心に土足で踏みこみさんざんもてあそんだあげく、今度は知らん顔だ」
高志と語りながら、頼之は「窓を開く」能力によって、眼下を歩く内閣官房長官を殺す。慰みのほんのお遊びのように。
頼之「と、まァこうやって気晴らしにおれが、あがく。すると世の中が少しは動くだろう。やりようによっては社会をめちゃくちゃにもできる。それでもヤツは知らん顔だ。・・・だから、もう祭りも何も無意味だということを証明して行きたいのさ」
彼はずば抜けた<資本 = 始源の借金>を背負わされてしまった者で、人一倍、この不条理な愛=暴力に敏感です。彼の資本力をもってすれば、世界の内部で売ったり買ったり自由自在です。「世界をめちゃくちゃ」にすることもできます。しかしそれはどこまでも「世界の中」のお話であって、彼の本当の問いには何一つ答えてくれない。
彼は「諦めるな、待て」と言われ、自由を奪われました。わたしたちすべてと同様に。
世界の内部には、一見「自由」に見えるものがあります。「手の届く力」で内閣官房長官を殺したり、華麗な超能力を見せ付けたり、新しく買った緑のワンピースで出社してみたり。しかしそんな「自由」は、すべて釈迦の掌であり、言わば「諦めるな、待て」とわたしたちを呼んだ者のシナリオの内部でしかありません。
「祭り」(=共同体的道徳規範)の力によって<外部>に抜けられるかのような語りは、頼之が言う通り欺瞞です。
では頼之の選んだように、「自ら諦める」、待つのをやめて<外部>へ力尽くで飛び出してしまうのが唯一の自由なのでしょうか。
恐ろしいことを言ってしまえば、確かにそれは「自由」の方法です。
「金か命か」で「金」を選んだとしたら、すべてを失います。
しかし「自由か命か」で「自由」を選ぶ時、確かに命は失うのですが、同時に自由のいくばくかを奪うことができる。つまり、他のすべての自由と引き換えに「死ぬ自由」だけを最後にひっかけて死ねるのです。二つの最後通告は、等価ではありません。
この限界の場所にこそ「自由」はあり、そして「命」というもの、それが「デジタルな切断」というナイーヴなイメージを越えて、この世界の中で何らかの分節可能性を得る僅かな隙間があります。つまり、「自由か命か」で「自由」を選んだ時、既にその者は「死んだも同然」なのですが、「本当の死」までの間にはタイムラグがあります。死刑執行までの物理的時間差という意味ではなく、論理的な間隙がある、ということです。「自由」は、<わたし>が死に、それから本当に死ぬまでの間、その論理的時間差においてのみ存在します。
しかし「二つの死の間」という時間が現れるとき、つまり「自由か死か」という問いが問われるとき、それは文字通りの意味でこの問いがつきつけられる時とは限りません。
「自由か死か」は、わたしたちが選んでいるつもりで実は何も選べていない、この事実に気づいた瞬間から、常にわたしたちに突きつけられています。この気づきとは、「自由」が宿命論的に奪われていることへの対峙、つまり「わたしは既に死んでいる」ということに気づく、ということです。
逆説的にも、「あぁ、もう死んでいるんだ」と悟った瞬間に、たった一つだけ自由が残ります。それは、「自由であることを選ぶ自由」、ちっとも自由などではなく、すべて決められてしまっている(事実上死んでいる)にも関わらず、「わたしは、わたしの自由において、この生を選ぶ」と叫ぶ不条理です。
『七夕の国』のラストシーンで、丸神頼之は「向こう」への旅に誘います。「窓を開いた」幸子は、その誘惑に惹かれる。ずっとずっと待ち続けて、何も起こらなかった。だから「諦める」。これも一つの自由です。
これに対し、ちょっと間の抜けた主人公「ナン丸」は、彼女の行く手を阻み、「待つ」選択肢を訴えます。ビル清掃のアルバイトをする彼は、咄嗟に「世界は広い! 掃除するのだって大変だぞ!」とわめきます。その論理は支離滅裂で、破綻しています。
「世界に線を引く」第一歩としての掃除、という見方をすれば、この台詞を「象徴界には常に残余がある」という「不可能なもの=現実的なもの」の訴えとして聞くこともできます。そう、確かに世界は掃除し切れません。掃除の虚しさから「諦める」のも道ですが、翻せば、掃除し切れない世界を前にしてなお掃除し続ける者、それは「半ば死んでいる」者です(※5)。
彼は「待て」と訴えますが、待ったからといってどうにもならない。人は普通、待った結果何かが起こると期待できるときだけ「待ち」ます。グリーンのワンピースを選ぶ自由です。
しかし、待っても諦めても一緒、あるいは既に「諦めたも同然」の場所にいる、という悟りの上に立って、なお「待つ」を叫ぶ、という選択があります。これが二つの死の間で、最後の自由を掴み取る方法です。
丸神頼之の「諦める」自由と、ナン丸の「待つ」自由。両者は共に、ある種の死と引き換えに自由を取ることですが、丸神頼之が文字通りの「死を賭した」自由であるのに対し、ナン丸の自由は「もう死は賭けられた、既に使い切っている」という、悪く言えば開き直り、良く言えば「死を賭す」イージーなロマン主義を超えた極限にリアルな「最後の自由」です。
男たちは、しばしば丸神頼之的な二者択一にはまり込みます。そして限られた人々は、文字通りの死と引き換えに自由を奪い取ります。
わたしはそれを止めない。多分、そこまでの愛などないから。
一方で、薄明の自由、待っても待ってもどうしようもないのに、それでも待っている、という自由があります。もう、何を待っているのかすらわからない「待ち」です。
わたしたちは多分、気がついたときからそういう「待ち」を続けているのですが、あんまり長いこと待っているので、自分が待っていることを忘れてしまったのでしょう。
わたしはちゃんと待てているだろうか。それとも、気づかぬうちに諦めてしまったのだろうか。
わからないことが多すぎる。
とりあえず、「待つのは苦手」なので、基本「待つ」らしいべにぢょさんに意味不明な"lovecall"です。
※1
「空地」については、以下参照。
「オルテガ『大衆の反逆』、空地、国家」
「掃除革命的グラフィティ・アート」
「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」
※2
資本と愛については、以下参照
「追い抜いちゃった人たち、愛=暴力、資本」
※3
「わたしは誰か」「君はコレだよ」については、以下参照
「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」
※4
「『選ぶ』を選ぶ」自由。以下参照
「ムッソリーニ、人種、自由」
※5
「掃除し切れない世界を前にしてなお掃除し続ける」は「でもやるんだよ」に連なります。「でもやるんだよ」精神については、以下のエントリ後半参照。
「寛容さと共存の何が問題なのか」
関連記事:
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