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2007年08月08日

「少数派マジョリティ」は片想いし、シャハラザードは聞き上手を求める

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 しあわせのかたちのsho_taさんと「乳について語る資格」のコメント欄で交わしていた会話が面白いので、まとめた上で少し展開してみます。
 といっても、話題の始まりは当該エントリではなく、「選挙権を行使しまくる、というライフハック」というココロ社さんの「『選挙権を放棄する』というライフハック」に対するエントリです。キーは「同一化」「多数派の中の少数派」そして「語りだすことで変わること」。

ish:
 (・・・)そういえば、先日の「選挙に行かないライフハック」ネタ、わたしも何か言おうかと思ったのですが、あんまりアホらしくて乗り遅れちゃいました。言いたいことの半分はsho_taさんが言ってくれている。ありがとう。
 ただし、わたしはサッカーは見ないし、何かの「ファン」になる、という同一化をほとんど経験していません。だから結果的な行動としては、sho_taさんとは全然かぶらない。「応援」というのは未だに意味がわからない。ただ、ロジックの基礎のところはシェアできているし、そう言う人と議論するのは実に楽しいです。

 「サッカーは見ないし」とあるのは、当該エントリで「選挙に行くのは、ひいきのチームがあった方がサッカーが楽しめるのと似ている」という論が登場するためです。つまり、ある種の「同一化」を楽しむ手段として選挙を楽しむのもアリなんじゃない、ということですが、わたしはそうした「楽しみ方」を認めつつ、趣味嗜好として自分はそうしない、と言っているわけです。

sho_ta:
 同一化については、おそらくですが、私とゆーさんとで最も意見が分かれる部分なのではないかな、とずいぶん前から思っておりました。無理やり端的に書いてしまえば、私には「母」を(「父」も)殺すことはできないし、「殺すべきだ」とする論理が正しいと思いつつも、同位署名はできないだろうな、というあたりです。まったく自分を卑下するわけではありませんが、ここらへんはゆーさんが非常に気持ち悪がってらっしゃる感性なのだろうな、とは思うのですけれども。
 取りあえず今は「砂と泥のあいだの渡し守」あたりのポジションを目指せればなあ、などと考えております。どっちの文明が勝っても真っ先に殺されそうな役回りな気がしないでもないですが。

ish:
>同一化については、おそらくですが、私とゆーさんとで最も意見が分かれる部分なのではないかな、とずいぶん前から思っておりました
 これはわたしも感じていました。
 (・・・)とりあえずわたしとしては、「殺さない」人たちのうち、ある種の人々については全否定ではないのですよ。むしろ、そういう人たちがいてくれるお陰で「殺せる」気すらしている。
 オルテガに言わせれば「だからファシストはガキなんだ」ということになるのでしょうが、ガキは一生ガキで、オッサンは生まれた時からオッサンなのだと思います。そして大局的には、寄生獣と人間が「あわせて一つ」のように、わたしたちは「家族」なのですが、大局から見るだけではただのボンボン相対主義なので、やっぱりケンカはしないといけない。
 そして「家族」と今あっさり言いましたが、家族って決して「仲良し共同体」などではなく、ものすごいグロテスクなものですよね。意味不明に。その辺に「家族」の核心があるはずで、今度きちんとまとめようと思っています。
 かつてわたしは、母-子的なるもの憎さに「アンチ・ファミリー」ということを提唱していたのですが、むしろ諸属性を取り払ったファミリーそのもの、という無気味さにこそヴァイオレントなものがある気がしてきています。(・・・)

sho_ta:
 (・・・)おっしゃる「不気味でヴァイオレントな関係」というのはよくわかるし、戦うべきだ、というのもよくわかってしまうのですが、しかし1対1ではとても勝てそうにないところがなんとも我が陣営の辛いところであります。数の上では明らかに圧倒しているのですが、相手が牙を研いでることすらほとんどの人間が感知してないからなぁ。ザックリ書くと、来週あたりコロッとゆーさんの気が変わって「とりあえずお前から☆」とか言われたら、逃げる間もなくペチャンコに……。味方に助けを頼んでも「はぁ? 何いってんの?」とか言われてすごく悲しい想いをするハメになりそうな気がしてなりません。こちらの最大の武器が「鈍感さ」ってどうなの? いやまあそれが最強なんでしょうけども。
 マジョリティがマイノリティに「手加減してください」というのもなんだかトンチンカンな気がしますが、まあ局所的にはそうなのかもな、と、ここらへんまるっと飲み込んでおいていただけると助かります。
 個人的な要望としては、もし革命に成功したら舎弟か奴隷として生かしておいていただけると助かります。また(こちらのほうが可能性は高いのですが)ゆーさんが夢破れて晒し首になりましたら、アンティゴネよろしく棺を背負っていって塞ぐくらいのことは引き受けたいと思います。あ、その前に石は投げると思いますけどw
(註:文中にある「砂の民」「泥の民」については「webは「砂の文明」である」「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」参照)

 興味深いのは、彼が「ある種のマジョリティ」と「ある種のマイノリティ」の状況を正確に認識していながら、なおかつ「(状況を認識していない)マジョリティ」の方にidentifyしている、ということです(「少数派/多数派」という模式化にはもちろん問題がありますが、ここでは問わないことにする)。
 彼の「味方」は「数の上では明らかに圧倒しているのに、相手が牙を研いでることすらほとんど感知してない」人々なのですが、彼自身は「感知している」。つまり、彼は「マジョリティ」の中の「マイノリティ」というポジションにいるわけです。
 わたしと彼は「状況の認識」というフレームワークについては、大枠でシェアできています。切り分けた上で、選ぶ立ち位置が異なる。それだけの違いなのかというと、そうではなく、彼が立つ位置の人々のほとんどは、わたしたちの間でシェアしているようなフレームワークを、そもそも持っていないのです。
 非常にナイーヴに考えると、フレームワーク自体が異なる(あるいは持っていない)人々と「仲間」になれるわけがない、枠組みが一致し、かつ枠組み内部で選択するポジションが一致する場合のみ「仲間」なのではないか、と思えます。実際、わたしなどは、(「仲間」かどうかはともかく)議論の相手としては、立ち位置よりもフレームワークをどこまでシェアできているか(シェアできていないなりに差異を理解する意志・能力があるか)を重視してしまいます。
 ではsho_taさんは片想いの間抜けな保守中道自由主義者なのかというと、そうではありません。ここに「アイデンティティ」なる、既に時代錯誤の代名詞ともなった青臭くミスリーディングな語の面白さがあります。

 identityは常にidentificationの失敗としてのみ成立します(※1)。
 identificationが完璧に成功してしまったりしたら、わたしたちは不動のモノへ一直線に墜落してしまいます。ですから、彼がその明晰な状況把握をちっともシェアしていない大衆に「片想い」し、その点では結構意見の合っているわたしの方には振り向いてくれないのは、それほどおかしなことではないのです。「お前らもうちょっとシャキッとしろよ、もぅ~」とヤキモキしながらも放っておけない、それはそれで不自然ではないのです。
 もちろん、だれかれ構わず片想いできるのかというと、そんな訳はありません。ただ、惚れた理由を合理的に説明できるかというと、それもノーでしょう。むしろ不合理であることが「純愛」の条件であり、合理的に説明できてしまった途端、彼・彼女の「愛」は信頼を失います。そして「愛しているか否か」は、内面への真摯な問いかけなどではなく他者の(緩い)承認の中で確認されるものですから、これは「愛」にとって致命的事態です(※2)。
 ですから、identifyするパトリの決定において重要なのは、「もう惚れちゃってるから」という次元です。つまり時間差であり、何かが過去=既に存在しないものとして切り離されることにより、ノスタルジアの対象たる故郷として成立するのです。

 もうちょっと続きがあります。
 sho_taさんが頼りないパトリ(郷土)を愛するのは良いとして、わたしが彼に語りかける、これはどう理解したら良いのでしょう。
 やりとりの中にある「むしろ、そういう人たちがいてくれるお陰で『殺せる』気すらしている」には、幼児的でヒステリー親和的な性向が伺えます。しかし、「『殺さない』を選ぶ人がいるなら、わたしは(バランス的に)『殺す』を選んでも大丈夫」というstatementの次元の甘えより、むしろこう「語る」ことによって生じるperformativeな効果に注目すべきでしょう。
 うんざりするようなベタな独白を許して頂くなら、わたしは少なくない人々が心の底から憎くて仕方がない一方、この憎悪を分節し、語りだしている間だけは、呪いのようにはりついた怒りや憎しみから解放されます。フロイト的「煙突掃除」ですが、これは、よく誤解されているように単に「言ってスッキリする」ということではありません。
 ヒステリー者の症状は、解読されるのを待っている暗号です。ただし、患者本人は(少なくとも自我の水準では)暗号の意味を知りません。「わたしにはわからないけれど、わかる人が少なくとも一人いる、先生、それはあなたでしょう」というわけです(※3)。
 「書く」とき、わたしたちはヒステリー者ほど自らのメッセージに「無知」なわけではありません。しかし、メッセージを「理解」しているわけでもありません。書いてはじめて「わかる」ことが沢山あります。
 つまり、「知っているはずの人」に向かってお便りを書いていたはずが、知っているのはわたしだった、ということになります。「書いた当人が一番よくわかっているのは当然じゃないか」と言われるかもしれませんが、ちっとも当然ではありません。「責任ある著者(意味の最後の保証人)」は、「書かれた」契機に初めて出現するのです(※4)。
 翻せば、何かが過去として切り出されます。それは「薄明にあった<わたし>」です。カタルシスの効果とは、呪いを過去に憑依させることですが、過去とは「かつてあり、今はない」という形式で今あるもの(無いものとしてある)です(※5)。
 「『殺さない』を選ぶ人がいるなら、わたしは『殺す』を選んでも大丈夫」と「言う」ことは、「殺すわたし」を過去として切り出すことです。呪いはそちらに移ったので、一周回って「殺さないわたし」が残る。『千夜一夜物語』のシャフリヤール王のようですが、「面白い話」を語るのもわたし自身です。だから、<わたし>は語ることでシャハラザードになる(※6)。
 「失われた故郷=パトリ」がこの時初めて過去として出現した、とも言えます。「女を信じず」「殺し続ける」シャフリヤール王は、シャハラザードの故郷なのです。
 しかし「出来立てのパトリ」は足が速く、ぼんやりしているとすぐに追いつかれます。何度でも何度でも、語りだす必要があります。シャハラザードには、俊足が要求されます。

 ある種の人々は、非常に早い段階でパトリを獲得します。おそらくは、産まれるよりもっと「過去」の時点において。彼・彼女らのパトリは比較的安定していますが、逆に機動性には乏しい。正に「泥の文明」的な定住民です。
 しかし、別の種類の人々の「故郷」は、遊牧民のテントのようなもので、一箇所に留まることができません。駱駝の背に乗せたテント一式、あるいはそうやって旅をすること自体、そちらにこそ「パトリ」がある。「砂の民」の故郷は、一段論理レベルの空間にあるのです。少なくともわたしは、大和民族やベルマーレ平塚に定住することなどとてもできないし、エビちゃんにテントを張ることもありません。
 とはいえ、駱駝が歩くにも大地は要るし、オアシスがなければ水も飲めません。シャフリヤール王を「葬る」シャハラザードであるためには、誰かもう一人、シャフリヤールでもシャハラザードでもない第三者、「語る相手=触媒」が必要です。
 そして稀に、泥の民にも砂の民に「耳を傾ける」用意のある者がいて、わたしは時々水を汲みに行く。彼らが駱駝に乗って現れた薄汚い旅人に施しを与えるのは、それをもって大切な田園を守るためかもしれない。それで結構だと思います。むしろ、断固として地にへばりついて、わたしたちの草原を踏み荒らさないで頂きたい。
 水さえ汲めれば馬賊も去っていくのですから、大事な水でも少しは分けてやる方が、真のパトリオットです。

 最後にもう一つ痛い独白を加えれば、わたしは誰よりも遠くへ行きたかった。
 当のsho_taさんに「旅とか好きそうですけれどね」と言われましたが、旅行はほとんどしません。世界旅行より、もっともっと遠くへ行きたかったのです。
 一番遠い場所とは、どこでしょうか。たぶんそれは、<ここ>にありながら無いもの、何の移動もないまま、決定的に何かが失われること、そうした「場」にあるように思います。それは、わたしがわたしであるまま紛れもなく違う<モノ>となることであり、他人の記憶を思い出すようなグロテスクな体験です。
 わたしは<ここ>で遊牧したい。でも、まだ余りにも余りにもスピードが足りないのです。


※1
 identityとidentificationについては、以下参照。
「『ラカンと政治的なもの』 ヤニス・スタヴラカキス」
「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」

※2
 「ねぇ、これって好きってことかな? 惚れちゃってる? ヤバい?」という中学生の会話。「惚れ」が静的な心的状態の一つであるなら、語らいの中で確認する必要はない。むしろ語らいの中で「汝はベタ惚れしている也」と認定されることで、「惚れている」ことになる。

※3
 もちろん「先生」は意味なんて知りません。分析家は(米国的俗流「精神分析」が時々示すような)「夢を解読し『本当のこと』を教えてくれる人」ではありません。
 カウンセラー的立場の人は、あまり人の話を聞きすぎてはいけません。
 わたしはよく「今日の一日報告」と言います。子供が帰宅すると、夕飯の支度などをしているお母さんに「報告」します。「今日な、さっちゃんがな、コケてな、そんで・・・」。この時、お母さんがマトモに子供の目を見て真剣に「聞いて」しまったら、かえって子供は言葉を紡げなくなってしまうでしょう。大根でも切りながら「ふーん、よかったねぇ」くらいが丁度良いのです。
 そしてお母さんは、さっちゃんのことなんて大して興味がないし、子供の伝えたいことをすべて理解できるわけでもないし、次の日には報告の内容など忘れています。もちろん、子供本人も。
 もちろん、「わかってくれそうに見える」ことは、非常に重要です。
 そして「女の子は聞き上手が大好き」(by べにぢょのらぶこーるさん)です。
 以下も参照。
「わかることとわからないこと 意味・理解・翻訳」
「決めてもらうこと、決めること、知っていると想定される主体」
「『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク」
「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」

※4
 「テクストの<真意>を保証するものは何か」という問題については、「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」を参照。

※5
 「書く」時、「書かれたもの」として<わたし>が一人の死者となる時とは、死体になった<わたし>を乗せた電車が去っていくのを、残された<わたし>ホームから眺めている時です。この別離そのものが、仲裁として機能しているのです。
 「メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか」参照。

※6
 語り続けることと『千夜一夜物語』、「砂の民」については「webは「砂の文明」である」参照。

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