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2007年08月11日

岩明均『ヘウレーカ』 科学のディスクールと<真理>の鏡

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『ヘウレーカ』 岩明均 『ヘウレーカ』 岩明均

 舞台は古代ローマ時代の都市シラクサ。時は第二次ポエニ戦争の最中、シラクサはローマにつくか、ハンニバルのカルタゴにつくかで揺れています。結局シラクサはカルタゴにつき、元は反カルタゴのために作られたアルキメデス発明による様々な武器で、迫り来るローマを撃退します。
 しかし、『ヘウレーカ』は「戦記もの」「歴史もの」ではありません。主人公ダミッポスは勇猛で知られるスパルタ人ですが、飄々とした軟弱な風情で、むしろ知力を駆使して状況を切り抜けます。彼は「亡命者」であり、ローマにもカルタゴにもシラクサにも愛着はない。そして「超兵器」を作り出したはずのアルキメデスは、既に年老いて半ば呆け、シラクサが戦っているのがローマであるということすら認識できていません。

 岩明均作品に通低するトーンとして、過剰な演出や起伏に乏しい傾向があります。物語的展開がない、という意味ではなく、むしろ残虐なまでの戦闘シーンが見られるのですが、常にどこか「冷めた」視線で描かれているのです。岩明均は、常に世界を突き放しています。人々が激高する場面すら、「マンガ的」感情移入を半ば拒むような演出があります。「人が真っ二つになったから、どうしたの?」という、虚無的で抑制された視点、それはしかし単なる「脱力」ではなく、むしろ徹底して平板化しようとする中で決定的なものが浮かび上がってくるのを待つ手法です(そしておそらく、彼にはこの描き方しかできないがゆえに、天才的)。

 『ヘウレーカ』は、岩明均のこの語らいと、物語的文脈が美しく調和しています。中心にあってしかるべきアルキメデス、彼が徹底して「蚊帳の外」であることです。
 天才アルキメデスは、今や見る影もありません。しかし、変わってしまったのはアルキメデスなのでしょうか。

 「ヘウレーカ」とは、しばしば「ユリイカ」「エウレカ」とも表記される「わかった!」という閃きの言葉です。アルキメデスがお風呂に入っている時に「アルキメデスの原理」を発見し叫んだ、という伝説があります。
 「わかる」とは何でしょうか。一般的には、現象の背後に法則を発見する、つまり何らかのリニアな性質を見出すこと、とイメージされていますが、法は常にそれを支える法を必要とし、最後には「公理」のような不条理に行き着きます。つまり、「わかる」という連続性の根底には、決定的に「わからない」という非連続性があります。「わかった!」と叫ぶのは、本質的には非連続的なパズルのピースが、別の形で組みあがった時です。

「わかる」ということは言い換えることであり、翻訳することです。翻訳のためには、「そこに何かが無い」ことを感じる必要があります。「無いのに気づいて不安」になって、次の場所へジャンプした瞬間に「わかった!」と人は叫ぶのです。「わかることとわからないこと 意味・理解・翻訳」

 「わかった!」は瞬間の出来事であるがゆえに、時間の外にあります。「流れる時間=物語=歴史」の外に飛び出してしまうことです。アルキメデスは「わかった!」の人であり、ただそれだけに自らの人生を費やしています。シラクサの人々も、アルキメデスのテクノロジと出会った時には驚きがあったでしょうが、次の瞬間には「活用」という「流れる時間」の世界に帰っていきます。そこに「わかった!」驚きはありません。物語は流れるがゆえに、変化していきます。「変わって」しまったのはシラクサの人々の方です。アルキメデスだけが時間の外にいるのです。

 「わかる」に駆動される語らい、「世界の鏡としての科学」を生きることを、ラカンは「大学のディスクール」として切り出しました(この呼称は現代的にはミスリーディングで、新宮一成氏のように「科学の語らい」と解するか、「真理探究のディスクール」とでもした方がわかりやすいと思います)。
大学のディスクール
 左上のS2は「知」、その作用を受けるのは対象aです。S/は「抹消された主体」を示し、S1は「主のシニフィアン」と呼ばれます。

対象、すなわち自然は、知の作用を受けるのであって、人間という主体も、その自然の一部に過ぎない。しかし主体は、知の作用を受ける自然の一部でありながら、自然には納まりきらない余りとして、その下に取り落とされている。(『ラカンの精神分析』新宮一成)

 つまり「世界のありよう」を理解しようと(「世界を映す鏡」を作り出そうと)すればするほど、その世界を見ている<わたし>だけが取りこぼされていきます。科学のディスクールは、<わたし>も人間の一個体で、人間は自然=世界の一部である、としますが、そう語っている<わたし>だけは、必ず語りの網の目から零れ落ちていきます。これが対象aの下に生産物=排泄物として置かれている主体S/です。

人間それ自身S/は、知S2が万物aをさんざんに測定し尽くしたあとに残された無残な余り物の位置に置かれる。「知」がいかに働いても、その働きは人間それ自身にまで至らない。人間それ自身を示す言葉であるS1は、近づくこともできない真理の位置に隠れ、人間から遠ざけられている。こうして主体は、自分の知に使命を与えた真理の審級から見放されるという不安に苛まれる。(同書)

 左下の位置は「真理」の位置とされていますが、真理は常に隠されています。そして科学のディスクールにおいて「隠された真理」に置かれているのは、主のシニフィアンS1です。主のシニフィアンとは、「命じるもの」、大義のようなものだと考えたらわかりやすいです。
 つまり、世界を理解しようとすればするほど、肝心の<わたし>だけは取り逃がされ、探求者は大義を失っていくのです。
 この不安から、多くの科学者・大学人は別のディスクールの形態、より「サラリーマン的」でわかりやすい大義を与えてくれる語らいへと移行していきます(※1)。

 しかしアルキメデスは撤退しません。ひるむことなく「世界の鏡」を磨き続けます。その勇猛さは、彼の探究心が「わかる」よりはむしろ「ヘウレーカ!」という瞬間に由来するためかもしれません。「わかる」は時間の中にあり蓄積されますが、「ヘウレーカ!」は時間の外にあります。
 このような語らいは、むしろ「分析家のディスクール」と呼ばれる形に近いかもしれません。
分析家のディスクール
 ここでは、語るのは対象であるaです。主体S/は受動的位置に留まります。「ヘウレーカ!」という閃き、驚きは、しばしば「向こうから」やって来ます。アルキメデスは、ただその瞬間のためだけに、対象に耳を傾け、時間の外に出てしまったとも言えます。

 『ヘウレーカ』の表紙には、シラクサに向かってくるローマ軍が描かれています。
 その手前には、老アルキメデスのものと思われる腕があり、手には鏡が握られています。しかし、鏡に映されている「持ち主」の像は、歪んで異様に拡大された「目」です。なぜなら、この鏡は凹面鏡だからです。
 凹面鏡は、平行光線を焦点に集めるため、太陽光発電などでも利用されます。『ヘウレーカ』の物語では、ダミッポスがこれを応用し、ローマの軍艦を光で攻撃します。
 鏡は普通、対象が反射した光を反射することで、対象そのものを(左右反転し)映し出します。しかし光の攻撃を受けたローマ軍が見たのは、像ではなく光そのものです。つまり「見ることを可能にしている何か」、対象aとしての「まなざし」です(※2)。ローマ軍は女たちの「まなざし」に焼かれたのです(※3)。
 アルキメデスの作り出した「鏡」(世界の鏡=科学)は、「直視に耐えない」まなざしを返すものでした。そして、その鏡が自らに向けられた時、映し出されたのは老いた醜い<モノ>でした。彼は「科学者」「大学人」がひた隠しにし逃れようとする「<モノ>としてのわたし」というグロテスクな次元に対峙したのです(※4)。

 最後に、もう一つだけ覚えておくべきことがあります。
 『ヘウレーカ』の表紙にある鏡、それは「こちら」に向かっています。まなざしを返す鏡、それが映し出しているのは、この本を手に取っているあなた自身の姿です。
 「きみはコレだよ」。
 アルキメデスの発見した「叫びだしたくなるような<真理>」が、そこにあります。


※1
 「主のディスクール」と言われる形式。
主のディスクール
 ここでは、「主としての言葉」S1が知S2に命じて業績を生産します。命じる「主」は「人類」であるとか「科学の一層の発展」であるとか、あるいは「家族」「名声」かもしれません。ここでは「科学のディスクール」の残余であったS/が、生産物たる対象aによって補完され、全体性を回復します。このS/とaの関係が、「S/◇a」幻想と呼ばれるものです。
 この構造は、自らを社会的意味づけの中に置くと同時に、「内面」の全体性を幻想的に満たすものであり、安定した形態です。政治家の言説などに典型を見ることができますが、むしろ現代人の基本的な語らいの形式と言って良いでしょう。

※2
 まなざし、対象aについては「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」参照。

※3
 奇しくも、ダミッポスの凹面鏡による「光の兵器」の標的の一つは、ローマ軍艦に描かれた目のマークでした(黒い部分の方が「光攻撃」が容易なため)。眼差しは目を焼くのです。
 目は「見る」ための器官ではありますが、同時に「見すぎない」必要があります。つまり、強すぎる光をアイリスで絞る必要があります。眼差しとは、このフィルター効果によって弾かれているもの、「見えすぎてしまって目が焼けるもの」です。

※4
 「<モノ>としてのわたし」については「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」参照。


岩明均 関連記事:
「空気が読めない者、その罪状と判決」(『寄生獣』)
「寛容さと共存の何が問題なのか」(『寄生獣』)
「待つ自由、諦める自由、丸神頼之の選択」(『七夕の国』)
「人間のフリをする人間」(『寄生獣』)
「『ヒストリエ』岩明均」
「岩明均『寄生獣』ハリウッド映画化」

追記:
『ヒストリエ』の4巻が発売されていますね。入手してまた何か書くかもしれません

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