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2007年08月13日

家族の<骨>

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 「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」で触れたような母-子的なるものの解体のために、かつてわたしは「アンチ・ファミリー」という立論をしたことがありました。実際、少なくとも「泥」的曖昧さの支配するこの国では、家族は母-子的なるものの拠点として占拠されており、その美名に傘着た「家族愛」「親子の情」的言説が、看過し難い害毒を撒き散らしているのは事実です。
 しかし今は、家族にはそれ自体に解体の契機としてのグロテスクなものが含まれており、むしろ家族の内部の内部にこそ、母の殺害の突破口を発見できるのではないか、と考えています。
 順を追って整理します。

 家族はいくつかの要素の複合体として構成されています。
 一つは、象徴的要素。つまり法制度としての家族です。これについては特に説明するまでもないかもしれませんが、現行制度で言えば、婚姻・離縁、養子縁組、親権やその他親子関係を既定するシステムのことです。当然ながら、制度は時代や国家によって異なり、また諸々の文化的形態があり得ます。
 注意すべきは、象徴的に既定された家族とは、生物学的な「家族」とは権利上独立している、ということです。レヴィ=ストロースの卓見に帰るまでもなく、象徴的家族は再生産のシステムではなく、父による子の認知と女=母の交換が構造化されたものです。
 もう一つの家族の要素は、上で排除された「再生産」つまり生殖という面です。わたしたちは通常、制度的家族を剥ぎ取ったとしても、なお「生物学的な家族」、生殖や「つがい」といったものが残る、とイメージしています。しかし、生殖は<現実的なもの>ではないし、また家族の基盤でもありません。
 第一に、象徴的家族が機能している限り、再生産=母がなかったとしても「家族」は成立しますし、逆に生物学的血縁があったからといって「家族」とは限りません。養子縁組や非嫡出子の例をみれば自明でしょう。
 第二に、「生殖」なるもの自体が、想像的なものです。わたしたちは、減数分裂した配偶子が接合し、やがて子となる、という「お話」に洗脳されきっていますが、これはどこまで行っても「生殖神話」であり、整合的に構成されたストーリーでしかありません。実際、「キャベツ畑」や「コウノトリ」でも物語は成り立ちますし、人類史のほとんどの期間、わたしたちは現行の物語の片鱗も知りはしませんでした。
 片方に性行為があり、もう片方に出産があり、両者をつなぐのは常に想像的な物語です。そして家族にとって重要なのは、このうち出産のみであり、出産さえ物語化され、かつ象徴的認定を受ければ、「生殖」の家族化は完了したことになります。言うなれば、妊娠は常に「想像妊娠」です。性行為ももちろん家族と交わりますが、出産との連続性においてではありません。

 家族を巡る批判・議論は尽きることがありませんが、その大半は象徴的家族、つまり父の機能に向けられたものでした。狭義の法制度を変革(あるいは擁護)しようという運動等は典型です。よりストリートな活動としては加納穂子らによる沈没家族等が思い出されますが、これも既存家族システムに揺さぶりをかけつつ、母-子関係自体は保存していました。
 サイボーグ・ファシズムは、むしろ母の機能の解体を目論むものです。よって、「出産」「子産み」こそ家族から排除しようとします。それは性行為から安全に隔離された「子産み物語」を破壊する、ということです。
 出産だけを取り出し、母-子へとつながる物語、これを分解するということは、代わって「性行為-出産」という別の枠組みが相対的に力を持つことを意味します。
 これは恋愛の物語でしょうか。違います。
 恋愛の物語とは、「(不可能な)性行為」を巡るものであり、このお話における「出産」とは、「子宝を授けられる」等々のやはり物語的なイメージにすぎません。「性行為-出産」はむしろ「繁殖」あるいは「増殖」です。逆説的にも、恋愛や家族の物語の中で、この「リアルなもの」が最も露になるのは「堕胎」という局面においてでしょう。
 「繁殖」言わば「科学の言説」の中にあります。これを人間に、とりえわけ「家族」に向けるということは、人間を「ヒト」、さらに肉へと変えてしまうことです。いわゆる家族にあっては、父の法と母の「自然」(なるファンタジー)が、肉片を人間へと統合してくれているのです。
 そしてサイボーグ・ファシズムは、これらの防衛を取り払うことにより、家族の最内部にある<外部>を取り出そうとする。人間を肉片に再分解する。
 正確には、この<外部>自らの力によって、それを守っていた父と母-子を内側から殺すのです。

 もしも母の解体を外から行おうとするなら、プロ-ライフでもプロ-セックスでもない「強制堕胎」、あるいは繁殖そのものの国家管理、という姿を取るでしょう。最も残虐な優生学的システム、それは「妊娠可能性のある者」を国家所有とし、「父のわからない子」ならぬ「母のわからない子」のみを生産するものです。
 しかし、このような外部からの介入は、父のシステムを活用するものです。もちろん、既存システムはこれを認めませんから、父の力に父の力で対抗する、という形を取ります。このような方法がまったく無効であるとは言えませんが(欧州文明的世界では、大枠の方法論として機能するかもしれない)、「母なる自然」こそが最大の障壁たるアジア的「泥の世界」にあっては、賢明な戦術とは言いがたいです(※1)。
 では、ここで手にする武器、父も母-子も取り去った後に残る「家族の最内部にある<外部>」とは、何でしょうか。

 「父-子-精霊」に無理矢理結びつけるなら、それは「精霊」的なものです。

<精霊>とは、そこでキリストがおのれの死後までも生き続ける、信ずる者たちの共同体である。つまり、キリストを信じるとは、信念それ自体を信じること、自分は孤立していないということ、信ずる者たちの共同体のメンバーであるということを信ずることと等しいのである。(『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク

 <精霊>は共同体的なもの、信仰共同体への帰属そのものです。ただし、この共同体とは「原始共産主義」的な閉じた平和的空想社会ではなく、「オルグ」し「布教」する暴力的増殖性を備えたものです。
 「共同体」と言うと、わたしたちはつい、静的で安定したライフボールのようなものをイメージしてしまいます。しかしそれは、父および母-子が加わり「三位一体化」した後の共同体です。
 ここで言う<精霊>は、歯止めの利かない増殖そのもの、ウィルスのようなものです。ウィルスはそれ自体では「自己増殖能力」を持たず、宿主を利用して無機的に広がります。
 <精霊>は増殖そのものであるが故に、それだけでは増殖できない。有機的なものの深奥にある無機的なもの、生を駆動する死、あるいは生を媒介し広がる死、それが<精霊>です。

 もう少し具体的に考えましょう。
 <精霊>を家族の中で位置づけるなら、広義の家族制度でも「子産み」でもない<家族>ということになります。それは単に「一緒に暮らすこと」でしょうか。半分は正解です。
 ただし、ここで共に暮らす者、「仲間」になる者たちは、いかなる<法>によっても結び付けられていません。紛れもなく<家族>なのですが、互いが互いの家族である必然性が見つからない。偶然バスに乗り合わせたような<家族>です。
 そして家族とは、そもそもバスに乗り合わせるのと同じくらい偶然的なものにすぎません。そこにこそ、家族の核心があるのです。ブニュエルではないですが、「偶然乗り合わせた者たち」の関係は、無気味でエロティックです。いわゆる「家族」は、それを父と母-子により隠蔽しただけのものです。
 法にも「自然」にも守られない、無機的<ファミリー>。
 おそらく、アソシエーショニストやアナキストが夢見た「連帯」も、この核心の近くまでは接近したのですが、結局彼らは、<ファミリー>の残虐性・無機性に耐えることができませんでした。有機的「家族」を夢想し、「リアルなもの」に直面し敗退したのです(※2)。
 <精霊>共同体は、上から統御する<法>を持たず、なおかつ無秩序でもありません。むしろ剥き出しの「秩序」、物理法則のような苛烈な「法ならぬ法」に導かれます。
 この「秩序」は、集合に属するのではなく、個物に働きかけます。一見「神の見えざる手」に整えられたかのような魚の群れが、実は各個体が「隣の個体」との関係をいくつかのルールで制御しているだけであるように。
 増殖性そのものであるがゆえに、単独で増殖することのない<精霊>は、「肉」に憑依し、彼・彼女らの中にその<血>を注ぎ込みます。それゆえ、<精霊>は滅ぼすことができません。<精霊>を排除したい「肉」の中に住み、最初から死んでいるのですから。

 "Every family has its skeleton in the cupboard(どこの家にも戸棚にも骸骨がある)"という諺があります。「どこの家庭にも秘密はある」といった意味ですが、この骸骨は、「最後に残る家族」を的確に表象しています。
 社会的家族、子産みの家族を剥ぎ取ると、骸骨が残ります。それはまったく「家族的」ではなく、familiarというよりstrangeなものです。内部の内部に、突然外部が現れます。これが「仲良しの骨」です。
 この骨は誰の骨でしょうか。家族が家族であるために、殺さざるを得なかった者の骨です。骨のお陰で肉が宿りますが、最初の骨は家族成員の誰でもない原-家族的な異者の骨です。
 翻せば、何か無気味なものが、肉に取り付いたのです。<精霊>ウィルス(あるいはバロウズ風に「言語ウィルス」)は、人間たちに寄生し、家族を作り出しました。
 家族は一見、平和の象徴のようで、様々な共同体が解体される中、「最後の砦」として喧伝される「許可された私空間」です。ネーション=ステートと資本主義は互酬的共同体を解体し、個人を露出しましたが、いわゆる核-家族でである限りは(家族ウィルスの伝染力が囲い込まれている限りは)、むしろ好都合な相補物として温存しました。

 疎外された互酬性の回復を訴える言説は多々あります。
 「連帯」に訴求するアソシエーショニズムやアナキズムに限らず、いわゆる「右翼」的言説、ナショナリズムなどにも典型を見ることができます(多くの「ナショナリスト」はこれを言説化できないですが)。
 しかしもちろん、「互酬的共同体」など遡及的に想定されたユートピアにすぎず、むしろ母-子的ファンタジーが遡行的に投影された生温い物語です。
 そうしたユートピアであっても、「父なるもの」の支配的な文明にあっては、統制的理念(それ自体は「真」ではないが、人を動かす理念)として機能する可能性もあるでしょう。しかし母-子的「自然」が無前提に信じられている「泥」の戦場においては、より一層弱い父を作り出すだけです。左翼は体制に破れ、ナショナリストも戦争に負けるでしょう。

 サイボーグ・ファシストは、「家族の骨」であり、<精霊>です。familiarなものの中に潜伏し、背後から母を撃たなければなりません。絶対の後衛を失った弱い父など、いつでも倒すことができます。
 わたしたちの戦場は、昼下がりの公園です。ベビーカーを押す肉たちが集い、「衛生的砂場」がネットで防衛され、「ポイ捨て」が監視されるPC的空間です。この戦場にあっては、例えば、占拠するホームレスたちは、むしろ<骨>となる可能性を秘めています。あるいは、異物としての「平日昼間の男たち」や、ホームレスにとっては天敵であるチーマーなども。
 母との戦闘においては、父との戦闘におけるセオリーを捨てなければなりません。「主戦力を叩く」「拠点を制圧する」等の発想は無効です。なぜなら、母には頭も結節点もなく、ただ醜悪な肉の連続があるだけだからです。
 それゆえ、逆説的にも「有効な攻撃目標」などを考える必要はありません。攻撃は常に、個別的・散発的・非一貫的であるのが、最も効果的です。
 肉は集合となることで力を持つものですから、集合化以前を契機とする無差別・個別的テロルこそが最良の方法であり、目標についても選別を必要としません。
 セオリーはただ一つです。

 「母を見たら、とにかく撃て」。


※1
 「泥の文明」については「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」「webは「砂の文明」である」を参照ください。


※2
 逆説的にも、いわゆる「内ゲバ(内部ゲバルト)」にこそ、<ファミリー>の真実が表れています。誰も「内ゲバ」目指して仲間を作ったりはしません。だからこそ「連帯」は「内ゲバ」の暴走を招き、内部崩壊したのです。「内ゲバ」的なるものを折込み、むしろこれとのidentificationというアクロバットを目論まない限り、「連帯」などボンボンの甘い夢にすぎません。
 ゲバルトの本質は、外部ゲバルトではなく内部ゲバルトにあります。


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