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2007年08月17日

ひっぱたきたくなくても、ひっぱたく

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 アンカテのessaさんが「赤木智弘にひっぱたかれたくない!」でとても面白いことを仰っています。
 「『丸山眞男』をひっぱたきたい -- 31歳フリーター。希望は、戦争。」に対する反応で、ネットでの反応等から議論の流れはおおよそ掴んでいたものの、原文を読んで一つだけ「あっ」と思ったことがある、という内容。

それは、タイトルの「『丸山眞男』をひっぱたきたい」が何を意味しているのかということ。

 essaさんは「丸山眞男」を、現在の思想状況を作り上げたものの象徴として用いられていると理解していたのですが、実際は「戦争が起これば、通常ではあり得ないような『立場の逆転』が起こりうる。丸山眞男をひっぱたけるのは、戦争においてだけだ」という、ずっと即物的な内容だったのです。
 この「誤読」と「気付き」は、絶妙に知識人とそうではない者(にidentifyする者)のズレを表現していて、非常に興味深いです。加えて、essaさんがキチンとそれを自覚している。赤木智弘に「ひっぱたかれる」のは自分であって、それに対してどう言い訳するのか、どう向き合うのか、ヒステリックではない冷静な論考を加えているのです。

 社会的経済的地位において、赤木氏と同等以下でない限り、読者は、赤木氏に「敵」と見なされていることを意識しながら、この論文を読むべきだと思う。「反論」している人たちの誰もが、そういう緊張感を持ってないように感じる。「私は君たちの仲間だ。話せばわかる」と気軽に言い過ぎてないか。  私は、「丸山眞男」なんか一冊も読んでないから気楽に野次馬気分で丸山批判の論争を見物しようと思っていたが、そんな甘いものではなかった。私がひっぱたかれるべき「丸山眞男」なのであって、その認定は、どんなに努力してもどんなに論理的に説き伏せてもどんなに誠意を持って接しても覆ることがない。  これがこの論文の唯一の正しい読み方ではないかと私は思うが、そういうふうに読む人は少ないというかほとんどいないみたいので、私にはあまり自信がない。でも、やっぱり、そう読むべきだと思う。

 そう読むべきです(断言)。
 これは「テクストに対する誠意」などという安いことを言っているのではなく(そうした「誠意」が完全に無化される場にこそ、このテクストの意義はあり、これを多くの「知識人」は理解していない)、テクストにおける汚辱の場で「これはわたしだ!」という気付きを得ること、すなわち<症候>としての自らを発見してしまうことこそ、愛=暴力あるテクストの読解として唯一のものだからです(※1)。

 ところで、わたしは「ひっぱたかれる」側でしょうか、「ひっぱたく側」でしょうか。
 と、問うてしまった途端、実はessaさんの発見したラディカリズムは消失し、単にフレームの中に自らを位置づける、というナルシシズムに堕しています。
 それでも「お約束」として位置づけ芸を見せてみれば、このブログを読んでいる人で、わたしのことをどちらの側と取る人もいるでしょう。それは、わたしという存在のどの側面を知っているか、に拠るだけのことです。
 「ひっぱたく」「ひっぱたかれる」両方の極端な要素を同時に備えた、少し珍しいケースかもしれません。

 「お約束」ついでにものすごいつまらないことを言ってしまえば、誰でも「ひっぱたく」「ひっぱたかれる」を多少は備えています。
 その中で、essaさんが批判対象としたようなイージーな「ひっぱたく」選択をしてしまうのは、安いナルシシズム的ひきこもり以外のなにものでもありません。
 では「ひっぱたかれる」が最初に来て、「ひっぱたかれるわたし」とただ向き合えば良いのでしょうか。
 「ひっぱたかれるわたし」を発見するという契機は、決定的です。これがなければ話になりません。「あぁ、致命的だ。取り返しがつかない」。
 しかし、これを発見しながら、同時に暴力的に握りつぶし、「ひっぱたく」を選ぶ、しかもただ選ぶだけでなく、走っていってひっぱたいてしまう、という道もあります。
 「寛容さと共存の何が問題なのか」で、「豚は『人間と共生している』とは考えないだろうが、それでも豚と人間はある意味共生している、わたしはそう言わざるを得ない」という圧倒的諦念に満ちた『寄生獣』田宮良子(田村玲子)の愛=暴力に触れました。走っていってひっぱたく、というのはそういう選択です。

 「ひっぱたかれたくない」なら、「ひっぱたく」謂れが一寸もなかったとしても、走って行ってひっぱたけば良いのです。本当はそれしか選択の余地などない。「ひっぱたきたい」ではなく、ただ、ひっぱたく。ひっぱたきたくなくても、ひっぱたく。なぜなら、多分わたしたちはもう、かなり「ひっぱた」いてしまっているのですから。
 一方で「ひっぱたきたい」赤木さんにも、どこか倫理的な煮え切らなさを感じます。もちろん、「戦争」を道徳規範により批判する、という意味ではありません。
 ひっぱたきたいなら、なぜ今、今日、走って行ってひっぱたかないのですか。
 戦争など待っていたら日が暮れてしまいます。「ひっぱたきたい」などと口にしているから、いつまでたってもひっぱたけないのです。
 戦争はもう始まっていて、今ここで進行しています。

 それでも、こういうことを口にする人々が多少なりとも育ってきたことには、ポジティヴな想いを抱きます。
 あとはもう、ただひっぱたくだけです。
 既にひっぱたいてしまっている、という罪を償うために、ただ走る死体として。

※1
「「わたしのことどう思う?」という問いは何を隠すのか」参照。

関連記事:
「ムッソリーニ、人種、自由」
「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」

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コメント

突然すみません。
私は小口と申します。
ishさんはYTさんでしょうか?
YTさんを昨日からすごく捜しています。
イメフォまで電話しました。
もしYTさんでしたらご連絡をしたいので、コメントいただけますか。
よろしくお願いします。

投稿者 ogu [TypeKey Profile Page] : 2007年08月18日 14:38

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