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<title>ish☆手作りスキンケア・サイボーグ</title>
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<modified>2008-08-17T16:25:05Z</modified>
<tagline>手作りスキンケア、コスメ、ダイエットから現代思想まで</tagline>
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<title>移転のお知らせ</title>
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<summary type="text/plain">　サーバー移転しました。 ...</summary>
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<dc:subject>ブログ・ネット</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　サーバー移転しました。<br />
</p>]]>

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<title>生産終了のエヴァンテをまとめ買い</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_429.html" />
<modified>2007-08-27T13:46:16Z</modified>
<issued>2007-08-27T13:41:51Z</issued>
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<summary type="text/plain">　9月中旬で生産終了になるエヴァンテ化粧液をまとめ買いしてしまいました。 　化粧水はハイドロキノンとビタミンC誘導体を使って手作りしているのですが、この手作り化...</summary>
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<dc:subject>コスメ・スキンケア</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　9月中旬で生産終了になるエヴァンテ化粧液をまとめ買いしてしまいました。</p>

<p><img alt="生産終了のエヴァンテをまとめ買い" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/06020001.JPG" width="284" height="296" /></p>

<p>　化粧水は<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/04/post_197.html">ハイドロキノンとビタミンC誘導体を使って手作りしている</a>のですが、この手作り化粧水は美白メインの「薬効狙い」なもの。それだけに、余りに使い続けるとかえって肌に負担がかかってしまう可能性があります。<br />
　そんなわけで、最近は手作りをメインに「お休み用」化粧水を時々、という構成にしているのですが、この「お休み用」に使っているのがファンケル エヴァンテの化粧水「しっとり」。<br />
　エヴァンテはアンチエイジング・リンクルケアがメインのファンケルの中でも一番優しいラインナップですが、このエヴァンテが続々と廃番になっています。</p>]]>
<![CDATA[<p>　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_364.html">洗顔パウダーはもうなくなっていて</a>、化粧液と乳液も9月に新ラインと入れ替えのようです。<br />
　新しいものが肌に合えば良いのですが、洗顔が今ひとつ納得できなかったので、今のうちにエヴァンテ買いだめしておきました。<br />
　未開封で一年、開封後一ヶ月という使用期限がありますが、冷蔵庫に保存しておけば、間違いなくこれより長持ちします。まぁ、賞味期限と一緒で、一ヶ月過ぎたら急に腐るようにはできていないわけですけれど（笑）。<br />
　手持ちが尽きる頃に、また「お休み用」化粧水を探します。</p>

<p>関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_397.html">「ファンケル リファイニング・エッセンス」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_365.html">「軽めの低刺激乳液 エヴァンテ夜用」</a></p>]]>
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<title>WordPressとブログサービス比較</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/wordpress.html" />
<modified>2007-08-26T16:54:08Z</modified>
<issued>2007-08-26T03:09:26Z</issued>
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<summary type="text/plain">　サーバーの移転を検討しています。 　「はてなとMacintosh」で書いた通り、このブログはロリポップにMovableTypeをインストールして運営しているの...</summary>
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<dc:subject>ブログ・ネット</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　サーバーの移転を検討しています。<br />
　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/macintosh.html">「はてなとMacintosh」</a>で書いた通り、このブログは<a href="http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=O8MI2+FCIA5U+348+5Z6WY">ロリポップ</a>にMovableTypeをインストールして運営しているのですが、既にその容量が限界に達しているのです。<br />
　移転するとしたら、既存ブログサービスを利用するか、別サーバーで何らかのCMSを使うことになります。既存ブログサービスの一般イメージってどうなのかな？と思い、Google様に尋ねたところ、<a href="http://spicydrop.blog45.fc2.com/blog-entry-6.html" target="_blank">◆笑ったメモ:各ブログサービスのイメージ<a>さんにこんな記述がありました。</p>]]>
<![CDATA[<blockquote>

<p>ライブドア　アフィもエロもなんでもあり。２ｃｈネラ多い。投資系も多い。 <br />
ヤプログ　　女子高生の日記多い。ケータイ向け <br />
楽天　　　　アフィリ厨が多い。あと主婦の日記 <br />
ヤフー　　　一般人が多い。駄ブログ率が高い <br />
FC2　　　　可もなく不可もなく <br />
goo　　　　ややオタが多め <br />
エキサイト　一般人 <br />
はてな　　ｷﾓｵﾀのしゃべり場 <br />
アメーバ　アフィリ系多い <br />
Seesaa　まったりしてる。比較的おすすめ <br />
JUGEM　オシャレぽい人がおおい希ガス <br />
ココログ　中身のある読み応えのあるブログが多い <br />
</blockquote></p>

<p>　「はてな」の人、エライ言われようですね（笑）。<br />
　わたし個人は、使うとしたら「はてなダイアリー」かココログです。他は選択肢に入りません。人に「お奨めブログサービス」を尋ねられても、同じ答えでしょう。<br />
　「はてなダイアリー」は「使わない」と言った先から<a href="http://d.hatena.ne.jp/quran/" target="_blank">何気に始めている</a>のですが、これは特定の目的専用なので、当サイトの移転先にはなりません。<br />
　「はてな」を複数アカウントで使う手もありますが、前にも書いた通り（わたしにとっては）今ひとつ直感的に使えない上、複数アカウントでログインし直すのが面倒です。</p>

<p>　結論から言うとWordPressで新サーバー、ということにほとんど心が決まっています。<br />
　MovableTypeは最初は良いのですが、再構築がどんどん重くなっていくのでもう使う気がしません。また、DBも最初からMySqlにしておけば多少便利ですが、途中で移行するのは激しく腰が重いです。中身が不満な時も、Perlは仕事で使ったことがほとんどないので、いじりたくないのです。<br />
　WordPressはPHP + MySql。どちらも馴染んでいますし、必要なら自分で改造することもできます。動的生成なのでサーバー容量を圧迫することもないし、大変魅力的です。<br />
　<A href="http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=U74IU+1PX3OY+D8Y+65U42" target="_blank">さくらインターネット</A>に上げてとりあえず試してみようと思っているので、正式移転となったらお知らせします。<br />
<img border="0" width="1" height="1" src="http://www13.a8.net/0.gif?a8mat=U74IU+1PX3OY+D8Y+65U42" alt=""></p>]]>
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<title>アクシリオ ダブルクレンジングゲルと線香花火</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_428.html" />
<modified>2007-08-24T13:52:19Z</modified>
<issued>2007-08-24T13:51:52Z</issued>
<id>tag:ish.chu.jp,2007:/blog/2.3017</id>
<created>2007-08-24T13:51:52Z</created>
<summary type="text/plain">　リピートしまくっている低刺激クレンジングジェル「アクシリオ ダブルクレンジングゲル」をいつものように注文したところ、線香花火がついてきました。 　アクシリオ（...</summary>
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<dc:subject>コスメ・スキンケア</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　リピートしまくっている低刺激クレンジングジェル「アクシリオ ダブルクレンジングゲル」をいつものように注文したところ、線香花火がついてきました。</p>

<p><img alt="アクシリオ ダブルクレンジングゲルと線香花火" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/05310002.JPG" width="343" height="249" /></p>

<p>　アクシリオ（アースケア）はパッケージデザインにも凝っていないし、サイトの作りもコスメ・スキンケア系では全然ありません。コスト削減の一環なのでしょうけれど（値段を考えると素晴らしくよくできたクレンジングだと思います）、逆に素朴な味わいになっているところもあります。</p>]]>
<![CDATA[<p>　注文すると、今回のように妙に人間味のある「オマケ」がついてくることがよくあるのですが、ハマる人にはハマる演出ですね。コスメ・スキンケア関係の「オマケ」で花火が付いてきたのは初めてです(笑）。<br />
　わたし個人は、素朴なものもゴージャス系もそれぞれに好きなのですが、アクシリオは断固この道を突き進んで欲しいです。変に商品バリエーションを増やさない方が、固定ファンが付くと思います。<br />
　大昔のファンケルも割と素朴系だったのですが、千手観音の如く方々に手を出して、かつての味わいはなくなってしまいました。まぁ、それはそれで結構ですし、一部の商品は今でも使っている（最近復活させた）のですが。</p>

<p>　アクシリオには<b>発芽玄米</b>とか作って欲しくないです。</p>

<p><br />
アクシリオ ダブルクレンジングゲル関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/02/post_312.html">「アクシリオ ダブルクレンジングゲルに新型のフタが」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/02/post_167.html">「アクシリオ ダブルクレンジングゲルを試す」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/03/post_172.html">「アクシリオ ダブルクレンジングゲルが届く」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/06/post_236.html">「アクシリオ ダブルクレンジングゲルをリピート」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/02/post_166.html">「ジェルクレンジングにしてみようと思った理由」</a></p>]]>
</content>
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<title>ブートキャンプのフロントキック</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_427.html" />
<modified>2007-08-21T15:16:57Z</modified>
<issued>2007-08-21T14:49:31Z</issued>
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<summary type="text/plain">　ブートキャンプにはフロントキック（前蹴り）のエクササイズがありますが、このとき、バンドをクロスさせて蹴り脚と反対側の腕を背後に回し、負荷をかけます。 　クロス...</summary>
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<dc:subject>武道・身体操作・エクササイズ</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　ブートキャンプにはフロントキック（前蹴り）のエクササイズがありますが、このとき、バンドをクロスさせて蹴り脚と反対側の腕を背後に回し、負荷をかけます。<br />
　クロスじゃないと蹴り難いから、というのもあるでしょうが、引き手を対角の腕にとっている、というのは何気に大切です。<br />
　フィットネスとしてやるだけなら深く考える必要は全然ないのですが、武道ヲタ的には興味深いポイントが隠されています。</p>]]>
<![CDATA[<p>　武道未経験者に「蹴る」という動作をやらせると、大抵はサッカーボールを蹴るような動きになり、蹴り脚側の腕を背後に引く、つまり身体が捻れるような動作になります。<br />
　しかし、武道的に考えると、むしろ蹴り脚と反対側の腕が引かれる、つまり右手と右足が一緒に出る「ナンバ」的動作が正しいはずです。<br />
　サッカーの場合、蹴る対象は当然サッカーボールです。サッカーボールは質量が軽いですから、強く蹴ろうとしたら、インパクト・ポイントの最高速を稼ぐことが重要になるはずです。つまり回転系の動作で脚をブーン！と振り回すようにするのが、一番スピードが出せるはずです。もちろん、実際のサッカーはそんな単純なものではないでしょうし、はるかに精妙なコントロールをしているのだと思います（サッカーをやったことがないので、全然的外れだったらゴメンナサイ）。<br />
　武道的な「蹴り」では、蹴る対象は人体です。人体でも、倒れた相手の頭を蹴る「サッカーボールキック」等の場合なら、サッカー同様「最高速」の蹴りが有効になるはずです。<br />
　しかしボディを正面から蹴る、例えばムエタイのストッピングの前蹴りのようなフロントキックでは、速さよりも「重さ」、つまり力積が重要になります。スパン！とキレイにキマる蹴りでも、全体重が乗っていなかったら向かってくる相手を止めることはできません。<br />
　力積の大きい突き蹴りを出そうとすると、自然とナンバ的な動作になります。最高速は出ませんが、重さのある打撃になります。<br />
　ブートキャンプのビリーの動作を観察していても、ベースにあるのは武道系の動作であることがわかります。<br />
　「ナンバ」というと「右手と右足を一緒」みたいなイメージがありますが、それだけではただの運動オンチのヒトです。身体が外側を回るようになり、トルクが出るどころか単にムダで遅い動きになるだけです。<br />
　身体全体が同時に動くというのは、軸を中心に「回る」のではなく、それこそ井桁崩しのように中心に一回崩れるようになりながらスッと半身が前に出ることです（細い隙間を通るイメージ）。まぁ、そんなことが簡単にできるくらいなら苦労はないのですが、一応理想としてはそういう動きのはずです。<br />
　中国武術では分脚という前蹴りっぽい蹴りがあり、金的を狙ったりボディを靴を履いたつま先で蹴る、等と言われますが、初級の練習では蹴り脚を軸足に一旦寄せて、それから外に弾くように出す、というやり方をします。この時、演武などでは蹴り脚と同じ側の手を甲をパンッと蹴り上げたりします（反対側の手は揚げ受けのようにする）。<br />
　手をパンパン蹴るのは演武用の演出という要素も大きいでしょうが、元々はおそらく「ナンバ」的動作を染みこませる練習だったように思います。実際は「イチ・ニー」と寄せてから蹴っては遅すぎますから、一挙動で蹴るように心がけます。初級では分解することで基本動作を明快にしよう、という意図があるのではないかと思います。<br />
　ブートキャンプの場合、良くも悪くも「フィットネス」なわけですから、練習的動作に集中しても悪くないはずです。<b>フィットネスだからこそ、そんなヲタ的ポイントに気をつかいたくない</b>、というのもありますが。</p>

<p>　まぁ、そんな能書きを垂れたところでウェイトのある人には勝てませんし、<b>正にそのウェイトを減らすことが最大の目的</b>であるブートキャンプで武道ヲタぶりを弾けさせても意味ないのですが・・・。</p>

<p>　この辺の武道ヲタ話や「速く鋭い」打撃と「重い」打撃、という視点については、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4062570831%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">ブルーバックスの『格闘技「奥義」の科学―わざの真髄』</a>という本がとても面白いです。当然ながら本を読んでも強くはなりませんが、純粋に読み物として楽しいです。武道なんてやっていないヒトにもおススメです。<br />
　数字が出てこない、もうちょっと「武道書」寄りのものとして、わたしが読んだ中で面白かったのは、<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4334032214%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">『ナンバ走り』</a><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4838710844%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">『スーパーボディを読む―ジョーダン、ウッズ、玉三郎の「胴体力」』</a>あたり。</p>

<p>　ちなみにブートキャンプですが、わたしは<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/04ac7217.261668cc.04ac7218.79d8ede3/?pc=http%3a%2f%2fwww.rakuten.co.jp%2fshopjapan%2f651695%2f616400%2f751322%2f%23790183&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fshopjapan%2fi%2f790183%2f" target="_blank">王道ショップジャパン</a>でビリーバンド付属の4枚組ブートキャンプを購入しましたが、字幕が要らないのであれば、<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_417.html">先日話題にした</a><a href="http://ecustom.listing.rakuten.co.jp/rms/sd/ecustom/mall?cl=FF9498&nm=ish&bk=ish.chu.jp%2Fblog%2F&hd=&aid=0019b9fc.bc81e4a9&sg=&g=0&v=3&p=1&s=0&sub=1&min=&max=&f=A&sw=%A5%B3%A5%F3%A5%D0%A5%C3%A5%C8%A5%A8%A5%AF%A5%B5%A5%B5%A5%A4%A5%BA%A5%ED%A1%BC%A5%D7&nw=">「コンバットエクササイズロープ」</a>と<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/B0009RQRD8%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">アマゾンで売っている「基本」「応用」の2枚組</a>を購入するのが一番割安です。ただし、字幕なしで最初からやる気になるのか、DVDがちゃんと再生できるのか、そして「コンバットエクササイズロープ」が使い物になるのかどうかはわかりません。個人的には、やっぱりショップジャパンが堅実だと思います。<br />
　念のためですが、ビリーバンドなしのブートキャンプなど、運動のうちに入りません。最初はバンドなしで可にしても、一週間もすれば適応してしまいますから、何らかの形で負荷をかける努力は絶対必要です。</p>

<p><br />
ブートキャンプ関連エントリ：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/04/post_342.html">ブートキャンプやってます！</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/04/post_343.html">ブートキャンプ日記</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/04/post_344.html">ブートキャンプ まとめ&効果</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_359.html">ビリーズブートキャンプ 効果 続報</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_401.html">ブートキャンプのちょっと格闘技な使い方</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_406.html">ブートキャンプのサイドキック</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_417.html">にせビリーバンドは代用品になるのか</a></p>]]>
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<title>Lシステイン美白ビタミン剤のジェネリック</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/l.html" />
<modified>2007-08-19T14:59:21Z</modified>
<issued>2007-08-19T14:42:54Z</issued>
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<created>2007-08-19T14:42:54Z</created>
<summary type="text/plain">　「二日酔いと美白ならハイチオールCよりシスティナC」でも書いたLシステイン系美白ビタミン剤のシスティナCをまたリピートしました。 ...</summary>
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<name>zkishyou</name>
<url>http://ish.chu.jp/blog/</url>
<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
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<dc:subject>コスメ・スキンケア</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/06/cc.html">「二日酔いと美白ならハイチオールCよりシスティナC」</a>でも書いたLシステイン系美白ビタミン剤のシスティナCをまたリピートしました。</p>

<p><img alt="Lシステイン美白ビタミン剤のジェネリック" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/05210002.JPG" width="334" height="248" /></p>]]>
<![CDATA[<p>　成分価格比でみるとハイチオールCより割安のため愛用しているのですが、そもそも<a href="http://pt.afl.rakuten.co.jp/c/0019b9fc.bc81e4a9/?url=http%3a%2f%2fwww.rakuten.co.jp%2fkohan%2f693881%2f%23726046" target="_blank">システィナCはハイチオールCのジェネリック医薬品とする記述</a>を見つけました。<br />
　ジェネリック医薬品とは、特許権が切れた先発医薬品を、他のメーカーが同じ主成分で作ったお薬のことです。ビタミン剤のような薬に「ジェネリック」の概念があるとは考えていなかったのですが、確かに薬は薬ですから、美白ビタミン剤だってジェネリックは作れます。<br />
　だとすれば、システィナCがハイチオールCより安いのは当たり前。正確には、ジェネリック医薬品はまったく同じ薬という意味ではないのですが、美白ビタミン剤の場合、そもそもそんなヤヤコシイ薬ではないですし、ほぼ間違いなく「同程度の効果」を安く買えると思って良いでしょう。<br />
　もちろん、Lシステインを飲んだからといって劇的にシミが消えたりするほど世の中甘くないですが、<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/04/post_197.html">手作りハイドロキノン化粧水</a>と力を合わせて、そこそこ効果を発揮してくれていると思います。<br />
　真偽のほどはわたしに直接会った人にでも聞いてください（笑）。</p>

<p>　ちなみに、購入ショップはいつもの<a href="http://hb.afl.rakuten.co.jp/hgc/053b7afe.d4ac1156.053b7aff.298d43d7/?pc=http%3a%2f%2fitem.rakuten.co.jp%2fkoyama-p%2f4987107046666%2f&m=http%3a%2f%2fm.rakuten.co.jp%2fkoyama-p%2fi%2f10000729%2f" target="_blank">ヘルスケア コヤマ</a>。送料を計算に入れると、楽天最安のはずです。システィナCだけだと4本まとめ買いしないと送料無料になりませんが、他のサプリメントなども安いですから、うまく5,000円を越えるよう組み合わせてください。その辺のドラッグストアよりはずっと割安です。</p>

<p><a href="http://ecustom.listing.rakuten.co.jp/rms/sd/ecustom/mall?cl=FF9498&nm=ish&bk=ish.chu.jp%2Fblog%2F&hd=&aid=0019b9fc.bc81e4a9&sg=&sub=1&s=5&v=2&sw=%A5%B7%A5%B9%A5%C6%A5%A3%A5%CAC&f=A&nw=&g=201548&min=&max=&p=1" target="_blank"><img src="http://hbb.afl.rakuten.co.jp/hgb/?pc=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fkoyama-p%2fcabinet%2fvitaminmineraru%2f4987107046666.jpg%3f_ex%3d80x80&m=http%3a%2f%2fthumbnail.image.rakuten.co.jp%2f%400_mall%2fkoyama-p%2fcabinet%2fvitaminmineraru%2f4987107046666.jpg%3f_ex%3d64x64" border="0"> システィナC</a></p>

<p>関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/06/_l.html">「美白ビタミン剤 Lシステイン比較」</a></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>ひっぱたきたくなくても、ひっぱたく</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_426.html" />
<modified>2010-10-16T07:55:44Z</modified>
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<created>2007-08-17T14:15:17Z</created>
<summary type="text/plain">　アンカテのessaさんが「赤木智弘にひっぱたかれたくない!」でとても面白いことを仰っています。 　「『丸山眞男』をひっぱたきたい -- 31歳フリーター。希望...</summary>
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<name>zkishyou</name>
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<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
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<dc:subject>文学・思想</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　<a href="http://d.hatena.ne.jp/essa/20070817/p1" target="_blank">アンカテ</a>のessaさんが<a href="http://d.hatena.ne.jp/essa/20070817/p1" target="_blank">「赤木智弘にひっぱたかれたくない!」</a>でとても面白いことを仰っています。<br />
　<a href="http://www7.vis.ne.jp/~t-job/base/maruyama.html" target="_blank">「『丸山眞男』をひっぱたきたい -- 31歳フリーター。希望は、戦争。」</a>に対する反応で、ネットでの反応等から議論の流れはおおよそ掴んでいたものの、原文を読んで一つだけ「あっ」と思ったことがある、という内容。</p>

<blockquote>それは、タイトルの「『丸山眞男』をひっぱたきたい」が何を意味しているのかということ。</blockquote>

<p>　essaさんは「丸山眞男」を、現在の思想状況を作り上げたものの象徴として用いられていると理解していたのですが、実際は「戦争が起これば、通常ではあり得ないような『立場の逆転』が起こりうる。丸山眞男をひっぱたけるのは、戦争においてだけだ」という、ずっと即物的な内容だったのです。<br />
　この「誤読」と「気付き」は、絶妙に知識人とそうではない者（にidentifyする者）のズレを表現していて、非常に興味深いです。加えて、essaさんがキチンとそれを自覚している。赤木智弘に「ひっぱたかれる」のは自分であって、それに対してどう言い訳するのか、どう向き合うのか、ヒステリックではない冷静な論考を加えているのです。</p>]]>
<![CDATA[<blockquote>　社会的経済的地位において、赤木氏と同等以下でない限り、読者は、赤木氏に「敵」と見なされていることを意識しながら、この論文を読むべきだと思う。「反論」している人たちの誰もが、そういう緊張感を持ってないように感じる。「私は君たちの仲間だ。話せばわかる」と気軽に言い過ぎてないか。
　私は、「丸山眞男」なんか一冊も読んでないから気楽に野次馬気分で丸山批判の論争を見物しようと思っていたが、そんな甘いものではなかった。私がひっぱたかれるべき「丸山眞男」なのであって、その認定は、どんなに努力してもどんなに論理的に説き伏せてもどんなに誠意を持って接しても覆ることがない。
　これがこの論文の唯一の正しい読み方ではないかと私は思うが、そういうふうに読む人は少ないというかほとんどいないみたいので、私にはあまり自信がない。でも、やっぱり、そう読むべきだと思う。</blockquote>

<p>　そう読むべきです（断言）。<br />
　これは「テクストに対する誠意」などという安いことを言っているのではなく（そうした「誠意」が完全に無化される場にこそ、このテクストの意義はあり、これを多くの「知識人」は理解していない）、テクストにおける汚辱の場で「これはわたしだ！」という気付きを得ること、すなわち<症候>としての自らを発見してしまうことこそ、愛=暴力あるテクストの読解として唯一のものだからです(※1)。</p>

<p>　ところで、わたしは「ひっぱたかれる」側でしょうか、「ひっぱたく側」でしょうか。<br />
　と、問うてしまった途端、実はessaさんの発見したラディカリズムは消失し、単にフレームの中に自らを位置づける、というナルシシズムに堕しています。<br />
　それでも「お約束」として位置づけ芸を見せてみれば、このブログを読んでいる人で、わたしのことをどちらの側と取る人もいるでしょう。それは、わたしという存在のどの側面を知っているか、に拠るだけのことです。<br />
　「ひっぱたく」「ひっぱたかれる」両方の極端な要素を同時に備えた、少し珍しいケースかもしれません。</p>

<p>　「お約束」ついでにものすごいつまらないことを言ってしまえば、誰でも「ひっぱたく」「ひっぱたかれる」を多少は備えています。<br />
　その中で、essaさんが批判対象としたようなイージーな「ひっぱたく」選択をしてしまうのは、安いナルシシズム的ひきこもり以外のなにものでもありません。<br />
　では「ひっぱたかれる」が最初に来て、「ひっぱたかれるわたし」とただ向き合えば良いのでしょうか。<br />
　「ひっぱたかれるわたし」を発見するという契機は、決定的です。これがなければ話になりません。「あぁ、致命的だ。取り返しがつかない」。<br />
　しかし、これを発見しながら、同時に暴力的に握りつぶし、「ひっぱたく」を選ぶ、しかもただ選ぶだけでなく、走っていってひっぱたいてしまう、という道もあります。<br />
　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_371.html">「寛容さと共存の何が問題なのか」</a>で、「豚は『人間と共生している』とは考えないだろうが、それでも豚と人間はある意味共生している、わたしはそう言わざるを得ない」という圧倒的諦念に満ちた『寄生獣』田宮良子（田村玲子）の愛=暴力に触れました。走っていってひっぱたく、というのはそういう選択です。</p>

<p>　「ひっぱたかれたくない」なら、「ひっぱたく」謂れが一寸もなかったとしても、走って行ってひっぱたけば良いのです。本当はそれしか選択の余地などない。「ひっぱたきたい」ではなく、ただ、ひっぱたく。ひっぱたきたくなくても、ひっぱたく。なぜなら、多分わたしたちはもう、かなり「ひっぱた」いてしまっているのですから。<br />
　一方で「ひっぱたきたい」赤木さんにも、どこか倫理的な煮え切らなさを感じます。もちろん、「戦争」を道徳規範により批判する、という意味ではありません。<br />
　ひっぱたきたいなら、なぜ今、今日、走って行ってひっぱたかないのですか。<br />
　戦争など待っていたら日が暮れてしまいます。「ひっぱたきたい」などと口にしているから、いつまでたってもひっぱたけないのです。<br />
　戦争はもう始まっていて、今ここで進行しています。</p>

<p>　それでも、こういうことを口にする人々が多少なりとも育ってきたことには、ポジティヴな想いを抱きます。<br />
　あとはもう、ただひっぱたくだけです。<br />
　既にひっぱたいてしまっている、という罪を償うために、ただ走る死体として。</p>

<p>※1<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_404.html">「「わたしのことどう思う？」という問いは何を隠すのか」</a>参照。</p>

<p>関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_349.html">「ムッソリーニ、人種、自由」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/06/post_388.html">「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」</a></p>]]>
</content>
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<title>送り火と年賀状</title>
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<modified>2007-08-15T00:16:00Z</modified>
<issued>2007-08-14T23:58:54Z</issued>
<id>tag:ish.chu.jp,2007:/blog/2.3011</id>
<created>2007-08-14T23:58:54Z</created>
<summary type="text/plain">　京都にいた頃、入り浸っていたカフェのマスターがこんなことを言っていました。 「お盆過ぎたら年末や」。 　さすがに、お盆過ぎから年賀状の準備を始めたら気が早すぎ...</summary>
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<name>zkishyou</name>
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<dc:subject>メモニッキ☆</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　京都にいた頃、入り浸っていたカフェのマスターがこんなことを言っていました。</p>

<p>「お盆過ぎたら年末や」。</p>

<p>　さすがに、お盆過ぎから年賀状の準備を始めたら気が早すぎるでしょうが、いかにも京都人らしいです。<br />
　実際、お盆が終わると、年末まではあっという間です。<br />
　南中高度からすれば「一年の真ん中」は夏至ですが、気温や四月で年度を切る日本の風習のお陰で、八月くらいにピークがあるような気がしています。「まだ折り返し」な気分でいると、実は三分の一しか残っていません。気を引き締めていかないと、それこそ年賀状シーズンまで一瞬です。</p>

<p>　京都のお盆と言えば、五山の送り火。<br />
　長いこと京都に住んでいながら、京都の文化も祭も大嫌いだったワタクシですが、五山の送り火だけは良いイベントだと思っています。<br />
　祇園祭なんて、人を見に行くようなものです。オマケに、<b>祭りで集まると言えばヤンキー</b>です。文化だの伝統だの言っていますが、要するに<b>祇園祭の実態はヤンキー見学</b>です。<br />
　その点、送り火は京都全体が「イベントスペース」。ヤンキーのいない場所からでも楽しめます。<br />
　もちろん、出町柳の鴨川デルタをはじめ、定番の「送り火スポット」というのはあるのですが、見晴らしさえよければ市内の大抵の場所から見られます（行政上の「京都市」じゃないですよ）。</p>]]>
<![CDATA[<p>　個人的に、最も心に残っている送り火は、大学時計台の頂上から見たものです。<br />
　最上階という意味ではなく、時計台のそのまた「屋上」です。<br />
　もちろん、普通なら登れるわけがないのですが、その年は夏休み期間に改修工事が行われていて、時計台周囲に足場が組まれていたのです。要するに、勝手に登って送り火見物したわけです。<br />
　送り火の日は、この「秘密ルート」に気づいた人が大勢登ってくるか、わたし一人か、どちらかだと思っていたのですが、点火時間間近に絶景の屋上でぼんやりしていると、一人だけ学生が登ってきました。<br />
　一人でも大勢でもなく二人。当然、初対面です。<br />
　微妙に気まずいですけれど、結構面白かったです。<br />
　ビールをもらって、送り火の後は彼の「隠れ家」らしいバーに案内してもらいました。ちなみに、そこで飲んだウィスキーが<b>異様に不味かった</b>です。</p>

<p>　密かに年賀状シーズンまであと一歩の送り火。<br />
　送るもよし、<b>送られるもよし</b>、です。</p>

<p>　今年はそろそろ、送られてみますかね・・・。</p>]]>
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<title>「はてな」とMacintosh</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/macintosh.html" />
<modified>2007-08-13T21:56:37Z</modified>
<issued>2007-08-13T21:51:39Z</issued>
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<dc:subject>ブログ・ネット</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ish.chu.jp/blog/">
<![CDATA[<p>　ご覧の通り、このブログは「はてなダイアリー」ではありません。一般のブログサービスでもなく、<a href="http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=O8MI2+FCIA5U+348+5Z6WY" target="_blank">ロリポップ</a>にMovableTypeをインストールして使っています。<br />
　一時期、知人向けの痛い日記をはてなダイアリーで運営していたことがあったのですが、痛すぎて吐きそうになったのでやめました（別にはてなのせいではない）。はてなアンテナは利用していますが、完全自分用のプライベートモードです。</p>

<p>　わたしはMacintoshユーザーではありません。<br />
　iBookも持っていますが、実質iPod専用HDと化しています。<br />
　.NET Frameworkのお陰でご飯を食べている今日この頃なので、ゲイツに足を向けて寝られません。本当は足を向けてバックキックでも叩き込みたいのですが、<b>お金の方が大事なので</b>「前髪ステキですね」とか言っておきます。<br />
　Macintoshについては、「はてな」に比べれば縁が深く、最初に買ったマシンはMacintoshで、都合三台乗り継ぎました。映像を扱っていた時はMacintoshで編集していました（その前はリニア編集、そのまた前はフィルム）。<br />
　それでも現在は、骨の髄までWindowsです。<br />
　ちなみにLinuxは、Google様がいないとpwdとdirとcdしか打てません。時々ps axとかkillとかやるハメになります。</p>

<p>　「はてな」とMacintoshに直接の関係はないでしょう。ただ「わたしにとって」の極私的相対位置を考えると、妙な平行性があります。</p>]]>
<![CDATA[<p>　一つは大したことではなく、「はてな」とMacintosh、どちらも「使わない理由」の筆頭に「使いにくいから」がくる、ということです。この「使いにくい」も「わたしにとっては」というだけですし、慣れれば多分一緒でしょう。<br />
　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/movable_type.html">「はてなスターをMovable Typeで好きな位置に表示させる」</a>でも書きましたが、ある種の人々にとって「はてな」が使いやすい、ということは認識しています。また、WindowsのデザインセンスはMacintoshの足元にも及びませんし、Mac OS、延いてはBSDの思想に惹かれる部分もあります。でも、少なくとも今のわたしにとっては、どちらもまるで直感的に扱えません。</p>

<p>　気になるのは、もう一つの理由の方です。<br />
　「はてな」利用者でもMacintoshユーザーでもないのに、読むブログには「はてなダイアリー」のものが多く、古い友人のほとんどがMacintoshユーザーなのです。<br />
　「自分は使わないのに、自分が気になる人は使っている」。<br />
　それが、わたしにとっての「はてな」とMacintoshの共通点です。<br />
　以前、web上に置いたオモチャを何人かの旧友に知らせたところ「Safariで動かない」「表示がヘン」報告が続々と寄せられました。気が付いてみると、知らせた人のほぼ全員がMacintoshユーザーでした。我が国におけるMacitoshのシェアを考えると、驚異的に正規分布からズレています。</p>

<p>　一体なぜ、わたしの気に入る人は「はてな」やMacintoshを使いたがるのでしょうか。<br />
　いや、「はてな」ユーザーやMacintoshユーザーにも色々いますから、逆は全然真ではないのですが、この偏りっぷりはちょっと気になります。<br />
　ものすごい大雑把な推測ですが、「はてな」やMacintoshのユーザーには比較的「メインストリームから外れ気味」「天邪鬼」な人が多い気がします。これが真だとすれば、同じく暴走しまくっているわたしと「類友」率が高い、ということかもしれません。わたし自身は、余りにも外れまくった結果、国道のド真ん中に突き抜けてしまったようです。<br />
　外山恒一さんが「ファシズムは極左経由の極右である」と言っていますが、わたしは典型です。<br />
　真理は常にマージナルな場に宿りますが、周縁を周縁と名指してしまった途端に、名指した者は相対主義的無力に陥ります。これを克服しようという営みは左派思想の中にもあるのですが、名指さずトコトコ歩いていくと、結構普通に真ん中に出られます。その代わり、パジャマで電車に乗ってしまったような「ヒョッコリ」状態ですから、周縁に佇む以上の危険に晒される可能性も大ですが。</p>

<p>　そういうわたしが気になる人に、割と「隅っこ」でぼんやりしているタイプが多いのは、「やめとき、こっちはロクなもんちゃうよ」と言っているのかもしれないし、自分だけ抜け駆けしようとしているとも取れます。</p>

<p>　オチはないです。<br />
　大袈裟に考えすぎです。<br />
　というか、わたし以外の全人類にとって、激しくどうでもいいことです。</p>

<p><br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4798110523%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow"><img src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/21DMWVBQP5L.jpg" alt="『「へんな会社」のつくり方 (NT2X)』 近藤淳也" style="border:0px;">&nbsp;『「へんな会社」のつくり方』 近藤淳也</a></p>]]>
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<title>家族の</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_424.html" />
<modified>2010-10-16T07:54:35Z</modified>
<issued>2007-08-13T05:05:44Z</issued>
<id>tag:ish.chu.jp,2007:/blog/2.3009</id>
<created>2007-08-13T05:05:44Z</created>
<summary type="text/plain">　「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」で触れたような母-子的なるものの解体のために、かつてわたしは「アンチ・ファミリー」という立論をしたことがありま...</summary>
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<name>zkishyou</name>
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<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
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<dc:subject>ファシズム</dc:subject>
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<![CDATA[<p>　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_402.html">「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」</a>で触れたような母-子的なるものの解体のために、かつてわたしは「アンチ・ファミリー」という立論をしたことがありました。実際、少なくとも「泥」的曖昧さの支配するこの国では、家族は母-子的なるものの拠点として占拠されており、その美名に傘着た「家族愛」「親子の情」的言説が、看過し難い害毒を撒き散らしているのは事実です。<br />
　しかし今は、家族にはそれ自体に解体の契機としてのグロテスクなものが含まれており、むしろ家族の内部の内部にこそ、母の殺害の突破口を発見できるのではないか、と考えています。<br />
　順を追って整理します。</p>]]>
<![CDATA[<p>　家族はいくつかの要素の複合体として構成されています。<br />
　一つは、象徴的要素。つまり法制度としての家族です。これについては特に説明するまでもないかもしれませんが、現行制度で言えば、婚姻・離縁、養子縁組、親権やその他親子関係を既定するシステムのことです。当然ながら、制度は時代や国家によって異なり、また諸々の文化的形態があり得ます。<br />
　注意すべきは、象徴的に既定された家族とは、生物学的な「家族」とは権利上独立している、ということです。レヴィ=ストロースの卓見に帰るまでもなく、象徴的家族は再生産のシステムではなく、父による子の認知と女=母の交換が構造化されたものです。<br />
　もう一つの家族の要素は、上で排除された「再生産」つまり生殖という面です。わたしたちは通常、制度的家族を剥ぎ取ったとしても、なお「生物学的な家族」、生殖や「つがい」といったものが残る、とイメージしています。しかし、生殖は<現実的なもの>ではないし、また家族の基盤でもありません。<br />
　第一に、象徴的家族が機能している限り、再生産=母がなかったとしても「家族」は成立しますし、逆に生物学的血縁があったからといって「家族」とは限りません。養子縁組や非嫡出子の例をみれば自明でしょう。<br />
　第二に、「生殖」なるもの自体が、想像的なものです。わたしたちは、減数分裂した配偶子が接合し、やがて子となる、という「お話」に洗脳されきっていますが、これはどこまで行っても「生殖神話」であり、整合的に構成されたストーリーでしかありません。実際、「キャベツ畑」や「コウノトリ」でも物語は成り立ちますし、人類史のほとんどの期間、わたしたちは現行の物語の片鱗も知りはしませんでした。<br />
　片方に性行為があり、もう片方に出産があり、両者をつなぐのは常に想像的な物語です。そして家族にとって重要なのは、このうち出産のみであり、出産さえ物語化され、かつ象徴的認定を受ければ、「生殖」の家族化は完了したことになります。言うなれば、<u>妊娠は常に「想像妊娠」</u>です。性行為ももちろん家族と交わりますが、出産との連続性においてではありません。</p>

<p>　家族を巡る批判・議論は尽きることがありませんが、その大半は象徴的家族、つまり父の機能に向けられたものでした。狭義の法制度を変革（あるいは擁護）しようという運動等は典型です。よりストリートな活動としては<a href="http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%88%E6%B2%A1%E5%AE%B6%E6%97%8F" target="_blank" rel="nofollow">加納穂子らによる沈没家族</a>等が思い出されますが、これも既存家族システムに揺さぶりをかけつつ、母-子関係自体は保存していました。<br />
　サイボーグ・ファシズムは、むしろ<u>母の機能の解体</u>を目論むものです。よって、「出産」「子産み」こそ家族から排除しようとします。それは性行為から安全に隔離された「子産み物語」を破壊する、ということです。<br />
　出産だけを取り出し、母-子へとつながる物語、これを分解するということは、代わって「性行為-出産」という別の枠組みが相対的に力を持つことを意味します。<br />
　これは恋愛の物語でしょうか。違います。<br />
　恋愛の物語とは、「（不可能な）性行為」を巡るものであり、このお話における「出産」とは、「子宝を授けられる」等々のやはり物語的なイメージにすぎません。<u>「性行為-出産」はむしろ「繁殖」あるいは「増殖」</u>です。逆説的にも、恋愛や家族の物語の中で、この「リアルなもの」が最も露になるのは「堕胎」という局面においてでしょう。<br />
　「繁殖」言わば「科学の言説」の中にあります。これを人間に、とりえわけ「家族」に向けるということは、人間を「ヒト」、さらに肉へと変えてしまうことです。いわゆる家族にあっては、父の法と母の「自然」（なるファンタジー）が、肉片を人間へと統合してくれているのです。<br />
　そしてサイボーグ・ファシズムは、これらの防衛を取り払うことにより、家族の最内部にある<外部>を取り出そうとする。人間を肉片に再分解する。<br />
　正確には、この<u><外部>自らの力によって、それを守っていた父と母-子を内側から殺す</u>のです。</p>

<p>　もしも母の解体を外から行おうとするなら、プロ-ライフでもプロ-セックスでもない「強制堕胎」、あるいは繁殖そのものの国家管理、という姿を取るでしょう。最も残虐な優生学的システム、それは「妊娠可能性のある者」を国家所有とし、「父のわからない子」ならぬ「母のわからない子」のみを生産するものです。<br />
　しかし、このような外部からの介入は、父のシステムを活用するものです。もちろん、既存システムはこれを認めませんから、父の力に父の力で対抗する、という形を取ります。このような方法がまったく無効であるとは言えませんが（欧州文明的世界では、大枠の方法論として機能するかもしれない）、「母なる自然」こそが最大の障壁たるアジア的「泥の世界」にあっては、賢明な戦術とは言いがたいです(※1)。<br />
　では、ここで手にする武器、父も母-子も取り去った後に残る「家族の最内部にある<外部>」とは、何でしょうか。</p>

<p>　「父-子-精霊」に無理矢理結びつけるなら、それは「精霊」的なものです。<br />
<blockquote><精霊>とは、そこでキリストがおのれの死後までも生き続ける、信ずる者たちの共同体である。つまり、キリストを信じるとは、信念それ自体を信じること、自分は孤立していないということ、信ずる者たちの共同体のメンバーであるということを信ずることと等しいのである。（<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4480089314%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">『否定的なもののもとへの滞留』スラヴォイ・ジジェク</a>）</blockquote></p>

<p>　<精霊>は共同体的なもの、信仰共同体への帰属そのものです。ただし、この共同体とは「原始共産主義」的な閉じた平和的空想社会ではなく、「オルグ」し「布教」する暴力的増殖性を備えたものです。<br />
　「共同体」と言うと、わたしたちはつい、静的で安定したライフボールのようなものをイメージしてしまいます。しかしそれは、父および母-子が加わり「三位一体化」した後の共同体です。<br />
　ここで言う<精霊>は、歯止めの利かない増殖そのもの、ウィルスのようなものです。ウィルスはそれ自体では「自己増殖能力」を持たず、宿主を利用して無機的に広がります。<br />
　<精霊>は増殖そのものであるが故に、それだけでは増殖できない。有機的なものの深奥にある無機的なもの、生を駆動する死、あるいは生を媒介し広がる死、それが<精霊>です。</p>

<p>　もう少し具体的に考えましょう。<br />
　<精霊>を家族の中で位置づけるなら、広義の家族制度でも「子産み」でもない<家族>ということになります。それは単に「一緒に暮らすこと」でしょうか。半分は正解です。<br />
　ただし、ここで共に暮らす者、「仲間」になる者たちは、いかなる<法>によっても結び付けられていません。紛れもなく<家族>なのですが、互いが互いの家族である必然性が見つからない。偶然バスに乗り合わせたような<家族>です。<br />
　そして家族とは、そもそもバスに乗り合わせるのと同じくらい偶然的なものにすぎません。そこにこそ、家族の核心があるのです。ブニュエルではないですが、「偶然乗り合わせた者たち」の関係は、無気味でエロティックです。いわゆる「家族」は、それを父と母-子により隠蔽しただけのものです。<br />
　法にも「自然」にも守られない、無機的<ファミリー>。<br />
　おそらく、アソシエーショニストやアナキストが夢見た「連帯」も、この核心の近くまでは接近したのですが、結局彼らは、<ファミリー>の残虐性・無機性に耐えることができませんでした。有機的｢家族」を夢想し、「リアルなもの」に直面し敗退したのです(※2)。<br />
　<精霊>共同体は、上から統御する<法>を持たず、なおかつ無秩序でもありません。むしろ剥き出しの「秩序」、物理法則のような苛烈な「法ならぬ法」に導かれます。<br />
　この「秩序」は、集合に属するのではなく、個物に働きかけます。一見「神の見えざる手」に整えられたかのような魚の群れが、実は各個体が「隣の個体」との関係をいくつかのルールで制御しているだけであるように。<br />
　増殖性そのものであるがゆえに、単独で増殖することのない<精霊>は、「肉」に憑依し、彼・彼女らの中にその<血>を注ぎ込みます。それゆえ、<精霊>は滅ぼすことができません。<精霊>を排除したい「肉」の中に住み、最初から死んでいるのですから。</p>

<p>　"Every family has its skeleton in the cupboard(どこの家にも戸棚にも骸骨がある)"という諺があります。「どこの家庭にも秘密はある」といった意味ですが、この骸骨は、「最後に残る家族」を的確に表象しています。<br />
　社会的家族、子産みの家族を剥ぎ取ると、骸骨が残ります。それはまったく「家族的」ではなく、familiarというよりstrangeなものです。内部の内部に、突然外部が現れます。これが「仲良しの骨」です。<br />
　この骨は誰の骨でしょうか。家族が家族であるために、殺さざるを得なかった者の骨です。骨のお陰で肉が宿りますが、最初の骨は家族成員の誰でもない原-家族的な異者の骨です。<br />
　翻せば、何か無気味なものが、肉に取り付いたのです。<精霊>ウィルス（あるいはバロウズ風に「言語ウィルス」）は、人間たちに寄生し、家族を作り出しました。<br />
　家族は一見、平和の象徴のようで、様々な共同体が解体される中、「最後の砦」として喧伝される「許可された私空間」です。ネーション=ステートと資本主義は互酬的共同体を解体し、個人を露出しましたが、いわゆる核-家族でである限りは（家族ウィルスの伝染力が囲い込まれている限りは）、むしろ好都合な相補物として温存しました。</p>

<p>　疎外された互酬性の回復を訴える言説は多々あります。<br />
　「連帯」に訴求するアソシエーショニズムやアナキズムに限らず、いわゆる「右翼」的言説、ナショナリズムなどにも典型を見ることができます（多くの「ナショナリスト」はこれを言説化できないですが）。<br />
　しかしもちろん、「互酬的共同体」など遡及的に想定されたユートピアにすぎず、むしろ母-子的ファンタジーが遡行的に投影された生温い物語です。<br />
　そうしたユートピアであっても、「父なるもの」の支配的な文明にあっては、統制的理念（それ自体は「真」ではないが、人を動かす理念）として機能する可能性もあるでしょう。しかし母-子的「自然」が無前提に信じられている「泥」の戦場においては、より一層弱い父を作り出すだけです。左翼は体制に破れ、ナショナリストも戦争に負けるでしょう。</p>

<p>　サイボーグ・ファシストは、「家族の骨」であり、<精霊>です。familiarなものの中に潜伏し、背後から母を撃たなければなりません。絶対の後衛を失った弱い父など、いつでも倒すことができます。<br />
　わたしたちの戦場は、昼下がりの公園です。ベビーカーを押す肉たちが集い、「衛生的砂場」がネットで防衛され、「ポイ捨て」が監視されるPC的空間です。この戦場にあっては、例えば、占拠するホームレスたちは、むしろ<骨>となる可能性を秘めています。あるいは、異物としての「平日昼間の男たち」や、ホームレスにとっては天敵であるチーマーなども。<br />
　母との戦闘においては、父との戦闘におけるセオリーを捨てなければなりません。「主戦力を叩く」「拠点を制圧する」等の発想は無効です。なぜなら、母には頭も結節点もなく、ただ醜悪な肉の連続があるだけだからです。<br />
　それゆえ、逆説的にも「有効な攻撃目標」などを考える必要はありません。攻撃は常に、個別的・散発的・非一貫的であるのが、最も効果的です。<br />
　肉は集合となることで力を持つものですから、集合化以前を契機とする無差別・個別的テロルこそが最良の方法であり、目標についても選別を必要としません。<br />
　セオリーはただ一つです。</p>

<p>　「母を見たら、とにかく撃て」。</p>

<p><br />
※1<br />
　「泥の文明」については<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_402.html">「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」</a><a href-"http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/web.html">「webは「砂の文明」である」</a>を参照ください。</p>

<p><br />
※2<br />
　逆説的にも、いわゆる「内ゲバ（内部ゲバルト）」にこそ、<ファミリー>の真実が表れています。誰も「内ゲバ」目指して仲間を作ったりはしません。だからこそ「連帯」は「内ゲバ」の暴走を招き、内部崩壊したのです。「内ゲバ」的なるものを折込み、むしろこれとのidentificationというアクロバットを目論まない限り、「連帯」などボンボンの甘い夢にすぎません。<br />
　ゲバルトの本質は、外部ゲバルトではなく内部ゲバルトにあります。</p>

<p><br />
関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_351.html">「サイボーグ・ファシズム」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_349.html">「ムッソリーニ、人種、自由」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_409.html">「『民族と国家』ナショナリティ・エスニシティ・パトリ」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/mixi_2.html">「mixiと女社会と「泥の文明」」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_398.html">「革命家は制止を振り切ってゴミを拾え」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_371.html">「寛容さと共存の何が問題なのか」</a></p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>『遊牧民から見た世界史』杉山正明 モンゴル帝国と資本主義</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_423.html" />
<modified>2007-08-12T06:28:47Z</modified>
<issued>2007-08-12T06:24:30Z</issued>
<id>tag:ish.chu.jp,2007:/blog/2.3008</id>
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<summary type="text/plain"><![CDATA[&nbsp;『遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて』 杉山正明 　『砂の文明・石の文明・泥の文明』にも引用のある、モンゴル史の専門家杉山正明氏による名著。「...]]></summary>
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<name>zkishyou</name>
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<dc:subject>世間・社会・歴史</dc:subject>
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<![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4532191610%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow"><img src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/216C80YNK6L.jpg" alt="『遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて (日経ビジネス人文庫)』 杉山正明" style="border:0px;">&nbsp;『遊牧民から見た世界史―民族も国境もこえて』 杉山正明</a></p>

<p>　<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4569629784%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">『砂の文明・石の文明・泥の文明』</a>にも引用のある、モンゴル史の専門家杉山正明氏による名著。「定住民中心の世界史」からのパラダイムシフトを図る、という野心作です。<br />
　ただし、その「定住民中心の世界史」の最低限の知識がなければ、ズラし具合というのも愉しめません。また、ほとんどの読者にとって、中央アジアの地理自体が模糊としているはずです。それこそ「定住民中心」「西欧中心」の世界観の賜物なわけです。もうひとつ、本書でも指摘されていることですが、「中央アジア」という世界は、長い間「ソ連」という枠組みの周縁として、正確な分節化を拒まれてもいました。どっぷりと洗脳につかり、かつ中国史の苦手なわたしとしては、前半は地図ページと行ったり来たりしながら、四苦八苦して進んでいました。<br />
　素人目にも間違いなくエキサイティングなのは、著者の専門でもあるモンゴル帝国に話題が移ってから。特に興味深かったモンゴルと銀・紙幣について、簡単にまとめておきます。</p>]]>
<![CDATA[<p>　金と銀が、長く貨幣的役割を果たしてきたことに異論はないでしょう。<br />
<blockquote>ただ、歴史上、大きく見て二筋の流れがある。ローマ帝国から、いわゆるビザンツ帝国にいたる脈絡は、金本位制といっていい状態で知られる。かたや、古代ペルシアに端を発するイラン文明圏は銀を前面に押し出した。そして両方の体質を受け継いだイスラーム中東世界は、銀をおもな交換手段としつつ、金も使った。</blockquote></p>

<p>　ところが、ここに一つ例外があります。銅貨に一元化された中華世界です(※1)。<br />
　しかも中華世界では、長い間、最低の額面である一文の銅銭を唯一の基準通貨としていました。日常の売買はともかく、高額の取引では不便極まります。<br />
　そこで「代用貨幣」的システムが発達しました。その一つに塩引があります。<br />
　塩引とは、官営の製塩場で作られた専売の塩を、指定業者が受け取る際に用いられた「引換証」です。これが有価証券として、決済手段に用いられたのです。</p>

<p>　そこにモンゴルが登場します。<br />
　モンゴルは中央ユーラシアの伝統から銀を中心的に使用していましたが、その広域支配により、十三世紀末には「国際通貨」としての銀が確立されたのです。<br />
　そして極端な重商主義政策を採った第五代ハーン クビライが、主たる歳入手段としたのが塩引の売却代金でした。つまり、中華世界の征服により塩引の知恵を得、これを銀で購入することとしたことにより、「代用貨幣」システムと銀という通貨をリンクさせたわけです。</p>

<blockquote>じつは当時、モンゴルが公式の「価値基準」とした銀は、膨大な通貨需要にくらべて、絶対量が不足していた。しかも、そのいっぽう、まさに当のクビライ政権がくりひろげる自由経済と通商振興政策によって(･･･)経済は目に見えて活況に向かった。ようするに、銀を基本にしていながら、肝心の銀が足りなかったのである。(･･･)
クビライ政権としては、年々歳々、不足にむかうことが予想される銀をおぎなうために、従来からあった塩引という制度を、面目を一新するシステムに仕立て上げた上で、前面に押し出したのである。</blockquote>

<p>　モンゴル帝国が広めた紙幣としては交鈔がより有名ですが、交鈔は小額紙幣であり、高額決済には適していません。<br />
　銀と紙幣を携え、積極的に通商による利潤獲得を図ったモンゴル帝国は、世界史的におそらく最初の「商業国家」となりました。その支配により、国家や政権だけでなく、市井の人々にとっても銀と接触する機会が格段に増え、銀による資本の蓄積という発想も身近なものになりました。<br />
　モンゴル帝国には、結果として現在の資本主義の下地を作る役割を果たした、と言ってよいのではないでしょうか。</p>

<p><br />
※1<br />
　銅銭文化圏がほぼ漢字文化圏と重なる、という興味深い事実がここで指摘されています。</p>

<p><br />
関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/web.html">「webは「砂の文明」である」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_402.html">「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/api.html">「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_421.html">「「少数派マジョリティ」は片想いし、シャハラザードは聞き上手を求める」</a></p>]]>
</content>
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<title>岩明均『ヘウレーカ』　科学のディスクールとの鏡</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_422.html" />
<modified>2008-12-23T14:24:15Z</modified>
<issued>2007-08-11T01:58:13Z</issued>
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<created>2007-08-11T01:58:13Z</created>
<summary type="text/plain"><![CDATA[&nbsp;『ヘウレーカ』 岩明均 　舞台は古代ローマ時代の都市シラクサ。時は第二次ポエニ戦争の最中、シラクサはローマにつくか、ハンニバルのカルタゴにつくかで揺...]]></summary>
<author>
<name>zkishyou</name>
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<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
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<dc:subject>映画・マンガ・サブカル</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ish.chu.jp/blog/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4592135008%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow"><img src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/31FES5GPMGL.jpg" alt="『ヘウレーカ』 岩明均" style="border:0px;">&nbsp;『ヘウレーカ』 岩明均</a></p>

<p>　舞台は古代ローマ時代の都市シラクサ。時は第二次ポエニ戦争の最中、シラクサはローマにつくか、ハンニバルのカルタゴにつくかで揺れています。結局シラクサはカルタゴにつき、元は反カルタゴのために作られたアルキメデス発明による様々な武器で、迫り来るローマを撃退します。<br />
　しかし、『ヘウレーカ』は｢戦記もの」「歴史もの」ではありません。主人公ダミッポスは勇猛で知られるスパルタ人ですが、飄々とした軟弱な風情で、むしろ知力を駆使して状況を切り抜けます。彼は「亡命者」であり、ローマにもカルタゴにもシラクサにも愛着はない。そして「超兵器」を作り出したはずのアルキメデスは、既に年老いて半ば呆け、シラクサが戦っているのがローマであるということすら認識できていません。</p>

<p>　岩明均作品に通低するトーンとして、過剰な演出や起伏に乏しい傾向があります。物語的展開がない、という意味ではなく、むしろ残虐なまでの戦闘シーンが見られるのですが、常にどこか「冷めた」視線で描かれているのです。岩明均は、常に世界を突き放しています。人々が激高する場面すら、「マンガ的」感情移入を半ば拒むような演出があります。「人が真っ二つになったから、どうしたの？」という、虚無的で抑制された視点、それはしかし単なる「脱力」ではなく、むしろ徹底して平板化しようとする中で決定的なものが浮かび上がってくるのを待つ手法です（そしておそらく、彼にはこの描き方しかできないがゆえに、天才的）。</p>

<p>　『ヘウレーカ』は、岩明均のこの語らいと、物語的文脈が美しく調和しています。中心にあってしかるべきアルキメデス、彼が徹底して「蚊帳の外」であることです。<br />
　天才アルキメデスは、今や見る影もありません。しかし、変わってしまったのはアルキメデスなのでしょうか。</p>]]>
<![CDATA[<p>　「ヘウレーカ」とは、しばしば「ユリイカ」「エウレカ」とも表記される「わかった！」という閃きの言葉です。アルキメデスがお風呂に入っている時に「アルキメデスの原理」を発見し叫んだ、という伝説があります。<br />
　「わかる」とは何でしょうか。一般的には、現象の背後に法則を発見する、つまり何らかのリニアな性質を見出すこと、とイメージされていますが、法は常にそれを支える法を必要とし、最後には「公理」のような不条理に行き着きます。つまり、「わかる」という連続性の根底には、決定的に「わからない」という非連続性があります。「わかった！」と叫ぶのは、本質的には非連続的なパズルのピースが、別の形で組みあがった時です。</p>

<blockquote>「わかる」ということは言い換えることであり、翻訳することです。翻訳のためには、「そこに何かが無い」ことを感じる必要があります。「無いのに気づいて不安」になって、次の場所へジャンプした瞬間に「わかった！」と人は叫ぶのです。<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2005/08/post_90.html">「わかることとわからないこと 意味・理解・翻訳」</a></blockquote>

<p>　「わかった！」は瞬間の出来事であるがゆえに、時間の外にあります。「流れる時間=物語=歴史」の外に飛び出してしまうことです。アルキメデスは「わかった！」の人であり、ただそれだけに自らの人生を費やしています。シラクサの人々も、アルキメデスのテクノロジと出会った時には驚きがあったでしょうが、次の瞬間には「活用」という「流れる時間」の世界に帰っていきます。そこに「わかった！」驚きはありません。物語は流れるがゆえに、変化していきます。「変わって」しまったのはシラクサの人々の方です。アルキメデスだけが時間の外にいるのです。</p>

<p>　「わかる」に駆動される語らい、「世界の鏡としての科学」を生きることを、ラカンは「大学のディスクール」として切り出しました（この呼称は現代的にはミスリーディングで、新宮一成氏のように「科学の語らい」と解するか、「真理探究のディスクール」とでもした方がわかりやすいと思います）。<br />
<img alt="大学のディスクール" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/05170001.JPG" width="183" height="96" /><br />
　左上のS2は「知」、その作用を受けるのは対象aです。<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>は「抹消された主体」を示し、S1は「主のシニフィアン」と呼ばれます。<br />
<blockquote>対象、すなわち自然は、知の作用を受けるのであって、人間という主体も、その自然の一部に過ぎない。しかし主体は、知の作用を受ける自然の一部でありながら、自然には納まりきらない余りとして、その下に取り落とされている。(<a href="http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/redirect?link_code=ur2&tag=ish-22&camp=247&creative=1211&path=http%3a%2f%2fwww.amazon.co.jp%2fexec%2fobidos%2fASIN%2f4061492780">『ラカンの精神分析』新宮一成</a>)</blockquote></p>

<p>　つまり「世界のありよう」を理解しようと（「世界を映す鏡」を作り出そうと）すればするほど、その世界を見ている<わたし>だけが取りこぼされていきます。科学のディスクールは、<わたし>も人間の一個体で、人間は自然=世界の一部である、としますが、そう語っている<わたし>だけは、必ず語りの網の目から零れ落ちていきます。これが対象aの下に生産物=排泄物として置かれている主体<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>です。</p>

<blockquote>人間それ自身<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>は、知S2が万物aをさんざんに測定し尽くしたあとに残された無残な余り物の位置に置かれる。「知」がいかに働いても、その働きは人間それ自身にまで至らない。人間それ自身を示す言葉であるS1は、近づくこともできない真理の位置に隠れ、人間から遠ざけられている。こうして主体は、自分の知に使命を与えた真理の審級から見放されるという不安に苛まれる。(同書)</blockquote>

<p>　左下の位置は「真理」の位置とされていますが、真理は常に隠されています。そして科学のディスクールにおいて「隠された真理」に置かれているのは、主のシニフィアンS1です。主のシニフィアンとは、「命じるもの」、大義のようなものだと考えたらわかりやすいです。<br />
　つまり、世界を理解しようとすればするほど、肝心の<わたし>だけは取り逃がされ、探求者は大義を失っていくのです。<br />
　この不安から、多くの科学者・大学人は別のディスクールの形態、より「サラリーマン的」でわかりやすい大義を与えてくれる語らいへと移行していきます(※1)。</p>

<p>　しかしアルキメデスは撤退しません。ひるむことなく「世界の鏡」を磨き続けます。その勇猛さは、彼の探究心が「わかる」よりはむしろ「ヘウレーカ！」という瞬間に由来するためかもしれません。「わかる」は時間の中にあり蓄積されますが、「ヘウレーカ！」は時間の外にあります。<br />
　このような語らいは、むしろ「分析家のディスクール」と呼ばれる形に近いかもしれません。<br />
<img alt="分析家のディスクール" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/disc_a.jpg" width="159" height="96" /><br />
　ここでは、語るのは対象であるaです。主体<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>は受動的位置に留まります。「ヘウレーカ！」という閃き、驚きは、しばしば「向こうから」やって来ます。アルキメデスは、ただその瞬間のためだけに、対象に耳を傾け、時間の外に出てしまったとも言えます。</p>

<p>　『ヘウレーカ』の表紙には、シラクサに向かってくるローマ軍が描かれています。<br />
　その手前には、老アルキメデスのものと思われる腕があり、手には鏡が握られています。しかし、鏡に映されている「持ち主」の像は、歪んで異様に拡大された「目」です。なぜなら、この鏡は凹面鏡だからです。<br />
　凹面鏡は、平行光線を焦点に集めるため、太陽光発電などでも利用されます。『ヘウレーカ』の物語では、ダミッポスがこれを応用し、ローマの軍艦を光で攻撃します。<br />
　鏡は普通、対象が反射した光を反射することで、対象そのものを（左右反転し）映し出します。しかし光の攻撃を受けたローマ軍が見たのは、像ではなく光そのものです。つまり<u>「見ることを可能にしている何か」、対象aとしての「まなざし」</u>です(※2)。<u>ローマ軍は女たちの「まなざし」に焼かれた</u>のです(※3)。<br />
　アルキメデスの作り出した「鏡」（世界の鏡=科学）は、「直視に耐えない」まなざしを返すものでした。そして、その鏡が自らに向けられた時、映し出されたのは老いた醜い<モノ>でした。彼は「科学者」「大学人」がひた隠しにし逃れようとする「<モノ>としてのわたし」というグロテスクな次元に対峙したのです(※4)。</p>

<p>　最後に、もう一つだけ覚えておくべきことがあります。<br />
　『ヘウレーカ』の表紙にある鏡、それは「こちら」に向かっています。まなざしを返す鏡、それが映し出しているのは、この本を手に取っているあなた自身の姿です。<br />
　「きみはコレだよ」。<br />
　アルキメデスの発見した「叫びだしたくなるような<真理>」が、そこにあります。</p>

<p><br />
※1<br />
　「主のディスクール」と言われる形式。<br />
<img alt="主のディスクール" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/disc_m.jpg" width="159" height="96" /><br />
　ここでは、「主としての言葉」S1が知S2に命じて業績を生産します。命じる「主」は「人類」であるとか「科学の一層の発展」であるとか、あるいは「家族」「名声」かもしれません。ここでは「科学のディスクール」の残余であった<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>が、生産物たる対象aによって補完され、全体性を回復します。この<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>とaの関係が、「<span style="letter-spacing:-0.5em;">S/</span>◇a」幻想と呼ばれるものです。<br />
　この構造は、自らを社会的意味づけの中に置くと同時に、「内面」の全体性を幻想的に満たすものであり、安定した形態です。政治家の言説などに典型を見ることができますが、むしろ現代人の基本的な語らいの形式と言って良いでしょう。</p>

<p>※2<br />
　まなざし、対象aについては<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/a.html">「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」</a>参照。</p>

<p>※3<br />
　奇しくも、ダミッポスの凹面鏡による「光の兵器」の標的の一つは、ローマ軍艦に描かれた目のマークでした（黒い部分の方が「光攻撃」が容易なため）。眼差しは目を焼くのです。<br />
　目は「見る」ための器官ではありますが、同時に「見すぎない」必要があります。つまり、強すぎる光をアイリスで絞る必要があります。眼差しとは、このフィルター効果によって弾かれているもの、「見えすぎてしまって目が焼けるもの」です。</p>

<p>※4<br />
　「<モノ>としてのわたし」については<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_404.html">「「わたしのことどう思う？」という問いは何を隠すのか」</a>参照。</p>

<p><br />
岩明均 関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_407.html">「空気が読めない者、その罪状と判決」</a>(『寄生獣』)<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_371.html">「寛容さと共存の何が問題なのか」</a>(『寄生獣』)<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_416.html">「待つ自由、諦める自由、丸神頼之の選択」</a>(『七夕の国』)<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_350.html">「人間のフリをする人間」</a>(『寄生獣』)<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2005/09/post_108.html">「『ヒストリエ』岩明均」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2005/07/post_67.html">「岩明均『寄生獣』ハリウッド映画化」</a></p>

<p>追記：<br />
<a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4063144607%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow">『ヒストリエ』の4巻</a>が発売されていますね。入手してまた何か書くかもしれません</p>]]>
</content>
</entry>
<entry>
<title>HIV検査結果証明書</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/hiv.html" />
<modified>2007-08-08T21:38:52Z</modified>
<issued>2007-08-08T21:34:17Z</issued>
<id>tag:ish.chu.jp,2007:/blog/2.3006</id>
<created>2007-08-08T21:34:17Z</created>
<summary type="text/plain">　サイボーグなので、色々検査やらメンテナンスやらで出費がかさむのですが、この間血を抜かれた時にこんな証明書がもらえました。 　HIV検査結果証明書です。 　一応...</summary>
<author>
<name>zkishyou</name>
<url>http://ish.chu.jp/blog/</url>
<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
</author>
<dc:subject>医療マメ知識</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ish.chu.jp/blog/">
<![CDATA[<p>　<b>サイボーグなので</b>、色々検査やらメンテナンスやらで出費がかさむのですが、この間血を抜かれた時にこんな証明書がもらえました。</p>

<p><img alt="HIV検査結果証明書" src="http://ish.chu.jp/blog/archives/05110001.JPG" width="300" height="210" /></p>

<p>　HIV検査結果証明書です。<br />
　一応、陰性です。<b>ペーパードライバーのゴールド免許みたい</b>で、あんまり自慢にならないのですが。</p>

<p>　よくお車に乗られる方は、当然ながら定期的に検査しておくべきでしょう。<br />
　人間の人たちは、ラヴな人に病気うつしたりしたくないものなんでしょ？</p>

<p>　わたしはスペックフリーク・検査フェチなので、数値自体が悦びです。</p>

<p><a href="http://px.a8.net/svt/ejp?a8mat=163MD1+1I6GTU+19LY+BW8O2&a8ejpredirect=http%3A%2F%2Fwww.gme.co.jp%2Faids.html" target="_blank">エイズ検査（HIV抗体定性）郵送検査</a><br />
<img border="0" width="1" height="1" src="http://www14.a8.net/0.gif?a8mat=163MD1+1I6GTU+19LY+BW8O2" alt=""></p>]]>

</content>
</entry>
<entry>
<title>「少数派マジョリティ」は片想いし、シャハラザードは聞き上手を求める</title>
<link rel="alternate" type="text/html" href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/08/post_421.html" />
<modified>2007-08-09T01:08:22Z</modified>
<issued>2007-08-08T05:38:24Z</issued>
<id>tag:ish.chu.jp,2007:/blog/2.3005</id>
<created>2007-08-08T05:38:24Z</created>
<summary type="text/plain">　しあわせのかたちのsho_taさんと「乳について語る資格」のコメント欄で交わしていた会話が面白いので、まとめた上で少し展開してみます。 　といっても、話題の始...</summary>
<author>
<name>zkishyou</name>
<url>http://ish.chu.jp/blog/</url>
<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
</author>
<dc:subject>文学・思想</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ish.chu.jp/blog/">
<![CDATA[<p>　<a href="http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/" target="_blank">しあわせのかたち</a>のsho_taさんと<a href="http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070803#1186104871" target="_blank">「乳について語る資格」</a>のコメント欄で交わしていた会話が面白いので、まとめた上で少し展開してみます。<br />
　といっても、話題の始まりは当該エントリではなく、<a href="http://d.hatena.ne.jp/sho_ta/20070801" target="_blank">「選挙権を行使しまくる、というライフハック」</a>という<a href="http://d.hatena.ne.jp/kokorosha/20070729#p1" target="_blank">ココロ社さんの「『選挙権を放棄する』というライフハック」</a>に対するエントリです。キーは「同一化」「多数派の中の少数派」そして「語りだすことで変わること」。</p>]]>
<![CDATA[<blockquote>

<p>ish:<br />
　(･･･)そういえば、先日の「選挙に行かないライフハック」ネタ、わたしも何か言おうかと思ったのですが、あんまりアホらしくて乗り遅れちゃいました。言いたいことの半分はsho_taさんが言ってくれている。ありがとう。<br />
　ただし、わたしはサッカーは見ないし、何かの「ファン」になる、という同一化をほとんど経験していません。だから結果的な行動としては、sho_taさんとは全然かぶらない。「応援」というのは未だに意味がわからない。ただ、ロジックの基礎のところはシェアできているし、そう言う人と議論するのは実に楽しいです。</blockquote></p>

<p>　「サッカーは見ないし」とあるのは、当該エントリで「選挙に行くのは、ひいきのチームがあった方がサッカーが楽しめるのと似ている」という論が登場するためです。つまり、ある種の「同一化」を楽しむ手段として選挙を楽しむのもアリなんじゃない、ということですが、わたしはそうした「楽しみ方」を認めつつ、趣味嗜好として自分はそうしない、と言っているわけです。</p>

<blockquote>

<p>sho_ta:<br />
　同一化については、おそらくですが、私とゆーさんとで最も意見が分かれる部分なのではないかな、とずいぶん前から思っておりました。無理やり端的に書いてしまえば、私には「母」を（「父」も）殺すことはできないし、「殺すべきだ」とする論理が正しいと思いつつも、同位署名はできないだろうな、というあたりです。まったく自分を卑下するわけではありませんが、ここらへんはゆーさんが非常に気持ち悪がってらっしゃる感性なのだろうな、とは思うのですけれども。<br />
　取りあえず今は「砂と泥のあいだの渡し守」あたりのポジションを目指せればなあ、などと考えております。どっちの文明が勝っても真っ先に殺されそうな役回りな気がしないでもないですが。</p>

<p>ish:<br />
>同一化については、おそらくですが、私とゆーさんとで最も意見が分かれる部分なのではないかな、とずいぶん前から思っておりました<br />
　これはわたしも感じていました。<br />
　(･･･)とりあえずわたしとしては、「殺さない」人たちのうち、ある種の人々については全否定ではないのですよ。むしろ、そういう人たちがいてくれるお陰で「殺せる」気すらしている。<br />
　オルテガに言わせれば「だからファシストはガキなんだ」ということになるのでしょうが、ガキは一生ガキで、オッサンは生まれた時からオッサンなのだと思います。そして大局的には、寄生獣と人間が「あわせて一つ」のように、わたしたちは「家族」なのですが、大局から見るだけではただのボンボン相対主義なので、やっぱりケンカはしないといけない。<br />
　そして「家族」と今あっさり言いましたが、家族って決して「仲良し共同体」などではなく、ものすごいグロテスクなものですよね。意味不明に。その辺に「家族」の核心があるはずで、今度きちんとまとめようと思っています。<br />
　かつてわたしは、母-子的なるもの憎さに「アンチ・ファミリー」ということを提唱していたのですが、むしろ諸属性を取り払ったファミリーそのもの、という無気味さにこそヴァイオレントなものがある気がしてきています。(･･･)</p>

<p>sho_ta:<br />
　(･･･)おっしゃる「不気味でヴァイオレントな関係」というのはよくわかるし、戦うべきだ、というのもよくわかってしまうのですが、しかし１対１ではとても勝てそうにないところがなんとも我が陣営の辛いところであります。数の上では明らかに圧倒しているのですが、相手が牙を研いでることすらほとんどの人間が感知してないからなぁ。ザックリ書くと、来週あたりコロッとゆーさんの気が変わって「とりあえずお前から☆」とか言われたら、逃げる間もなくペチャンコに……。味方に助けを頼んでも「はぁ？　何いってんの？」とか言われてすごく悲しい想いをするハメになりそうな気がしてなりません。こちらの最大の武器が「鈍感さ」ってどうなの？　いやまあそれが最強なんでしょうけども。<br />
　マジョリティがマイノリティに「手加減してください」というのもなんだかトンチンカンな気がしますが、まあ局所的にはそうなのかもな、と、ここらへんまるっと飲み込んでおいていただけると助かります。<br />
　個人的な要望としては、もし革命に成功したら舎弟か奴隷として生かしておいていただけると助かります。また（こちらのほうが可能性は高いのですが）ゆーさんが夢破れて晒し首になりましたら、アンティゴネよろしく棺を背負っていって塞ぐくらいのことは引き受けたいと思います。あ、その前に石は投げると思いますけどw<br />
（註：文中にある「砂の民」「泥の民」については<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/web.html">「webは「砂の文明」である」</a><a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_402.html">「文化と文明、サイボーグ・ファシズムと母の殺害」</a>参照）</blockquote></p>

<p>　興味深いのは、彼が「ある種のマジョリティ」と「ある種のマイノリティ」の状況を正確に認識していながら、なおかつ「（状況を認識していない）マジョリティ」の方にidentifyしている、ということです（「少数派／多数派」という模式化にはもちろん問題がありますが、ここでは問わないことにする）。<br />
　彼の「味方」は「数の上では明らかに圧倒しているのに、相手が牙を研いでることすらほとんど感知してない」人々なのですが、彼自身は「感知している」。つまり、彼は「マジョリティ」の中の「マイノリティ」というポジションにいるわけです。<br />
　わたしと彼は「状況の認識」というフレームワークについては、大枠でシェアできています。切り分けた上で、選ぶ立ち位置が異なる。それだけの違いなのかというと、そうではなく、彼が立つ位置の人々のほとんどは、わたしたちの間でシェアしているようなフレームワークを、そもそも持っていないのです。<br />
　非常にナイーヴに考えると、フレームワーク自体が異なる（あるいは持っていない）人々と「仲間」になれるわけがない、枠組みが一致し、かつ枠組み内部で選択するポジションが一致する場合のみ「仲間」なのではないか、と思えます。実際、わたしなどは、（「仲間」かどうかはともかく）議論の相手としては、立ち位置よりもフレームワークをどこまでシェアできているか（シェアできていないなりに差異を理解する意志・能力があるか）を重視してしまいます。<br />
　ではsho_taさんは片想いの間抜けな保守中道自由主義者なのかというと、そうではありません。ここに「アイデンティティ」なる、既に時代錯誤の代名詞ともなった青臭くミスリーディングな語の面白さがあります。</p>

<p>　identityは常にidentificationの失敗としてのみ成立します(※1)。<br />
　identificationが完璧に成功してしまったりしたら、わたしたちは不動のモノへ一直線に墜落してしまいます。ですから、彼がその明晰な状況把握をちっともシェアしていない大衆に「片想い」し、その点では結構意見の合っているわたしの方には振り向いてくれないのは、それほどおかしなことではないのです。「お前らもうちょっとシャキッとしろよ、もぅ～」とヤキモキしながらも放っておけない、それはそれで不自然ではないのです。<br />
　もちろん、だれかれ構わず片想いできるのかというと、そんな訳はありません。ただ、惚れた理由を合理的に説明できるかというと、それもノーでしょう。むしろ不合理であることが「純愛」の条件であり、合理的に説明できてしまった途端、彼・彼女の「愛」は信頼を失います。そして「愛しているか否か」は、内面への真摯な問いかけなどではなく他者の（緩い）承認の中で確認されるものですから、これは「愛」にとって致命的事態です(※2)。<br />
　ですから、identifyするパトリの決定において重要なのは、「もう惚れちゃってるから」という次元です。つまり時間差であり、何かが過去=既に存在しないものとして切り離されることにより、ノスタルジアの対象たる故郷として成立するのです。</p>

<p>　もうちょっと続きがあります。<br />
　sho_taさんが頼りないパトリ（郷土）を愛するのは良いとして、わたしが彼に語りかける、これはどう理解したら良いのでしょう。<br />
　やりとりの中にある「むしろ、そういう人たちがいてくれるお陰で『殺せる』気すらしている」には、幼児的でヒステリー親和的な性向が伺えます。しかし、「『殺さない』を選ぶ人がいるなら、わたしは（バランス的に）『殺す』を選んでも大丈夫」というstatementの次元の甘えより、むしろこう「語る」ことによって生じるperformativeな効果に注目すべきでしょう。<br />
　うんざりするようなベタな独白を許して頂くなら、わたしは少なくない人々が心の底から憎くて仕方がない一方、この憎悪を分節し、語りだしている間だけは、呪いのようにはりついた怒りや憎しみから解放されます。フロイト的「煙突掃除」ですが、これは、よく誤解されているように単に「言ってスッキリする」ということではありません。<br />
　ヒステリー者の症状は、解読されるのを待っている暗号です。ただし、患者本人は（少なくとも自我の水準では）暗号の意味を知りません。「わたしにはわからないけれど、わかる人が少なくとも一人いる、先生、それはあなたでしょう」というわけです(※3)。<br />
　「書く」とき、わたしたちはヒステリー者ほど自らのメッセージに「無知」なわけではありません。しかし、メッセージを「理解」しているわけでもありません。書いてはじめて「わかる」ことが沢山あります。<br />
　つまり、「知っているはずの人」に向かってお便りを書いていたはずが、知っているのはわたしだった、ということになります。「書いた当人が一番よくわかっているのは当然じゃないか」と言われるかもしれませんが、ちっとも当然ではありません。「責任ある著者（意味の最後の保証人）」は、「書かれた」契機に初めて出現するのです(※4)。<br />
　翻せば、何かが過去として切り出されます。それは「薄明にあった<わたし>」です。カタルシスの効果とは、呪いを過去に憑依させることですが、過去とは<u>「かつてあり、今はない」という形式で今あるもの</u>（無いものとしてある）です(※5)。<br />
　「『殺さない』を選ぶ人がいるなら、わたしは『殺す』を選んでも大丈夫」と「<u>言う</u>」ことは、「殺すわたし」を過去として切り出すことです。呪いはそちらに移ったので、一周回って「殺さないわたし」が残る。『千夜一夜物語』のシャフリヤール王のようですが、「面白い話」を語るのもわたし自身です。だから、<わたし>は語ることでシャハラザードになる(※6)。<br />
　「失われた故郷=パトリ」がこの時初めて過去として出現した、とも言えます。「女を信じず」「殺し続ける」シャフリヤール王は、シャハラザードの故郷なのです。<br />
　しかし「出来立てのパトリ」は足が速く、ぼんやりしているとすぐに追いつかれます。何度でも何度でも、語りだす必要があります。シャハラザードには、俊足が要求されます。</p>

<p>　ある種の人々は、非常に早い段階でパトリを獲得します。おそらくは、産まれるよりもっと「過去」の時点において。彼・彼女らのパトリは比較的安定していますが、逆に機動性には乏しい。正に「泥の文明」的な定住民です。<br />
　しかし、別の種類の人々の「故郷」は、遊牧民のテントのようなもので、一箇所に留まることができません。駱駝の背に乗せたテント一式、あるいはそうやって旅をすること自体、そちらにこそ「パトリ」がある。「砂の民」の故郷は、一段論理レベルの空間にあるのです。少なくともわたしは、大和民族やベルマーレ平塚に定住することなどとてもできないし、エビちゃんにテントを張ることもありません。<br />
　とはいえ、駱駝が歩くにも大地は要るし、オアシスがなければ水も飲めません。シャフリヤール王を「葬る」シャハラザードであるためには、誰かもう一人、シャフリヤールでもシャハラザードでもない第三者、「語る相手=触媒」が必要です。<br />
　そして稀に、泥の民にも砂の民に「耳を傾ける」用意のある者がいて、わたしは時々水を汲みに行く。彼らが駱駝に乗って現れた薄汚い旅人に施しを与えるのは、それをもって大切な田園を守るためかもしれない。それで結構だと思います。むしろ、断固として地にへばりついて、わたしたちの草原を踏み荒らさないで頂きたい。<br />
　水さえ汲めれば馬賊も去っていくのですから、大事な水でも少しは分けてやる方が、真のパトリオットです。</p>

<p>　最後にもう一つ痛い独白を加えれば、わたしは誰よりも遠くへ行きたかった。<br />
　当のsho_taさんに「旅とか好きそうですけれどね」と言われましたが、旅行はほとんどしません。世界旅行より、もっともっと遠くへ行きたかったのです。<br />
　一番遠い場所とは、どこでしょうか。たぶんそれは、<ここ>にありながら無いもの、何の移動もないまま、決定的に何かが失われること、そうした「場」にあるように思います。それは、わたしがわたしであるまま紛れもなく違う<モノ>となることであり、他人の記憶を思い出すようなグロテスクな体験です。<br />
　わたしは<ここ>で遊牧したい。でも、まだ余りにも余りにもスピードが足りないのです。</p>

<p><br />
※1<br />
　identityとidentificationについては、以下参照。<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/06/post_387.html">「『ラカンと政治的なもの』 ヤニス・スタヴラカキス」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/06/post_388.html">「ラディカル・デモクラシーと「ただの民主主義」」</a></p>

<p>※2<br />
　「ねぇ、これって好きってことかな？　惚れちゃってる？　ヤバい？」という中学生の会話。「惚れ」が静的な心的状態の一つであるなら、語らいの中で確認する必要はない。むしろ語らいの中で「汝はベタ惚れしている也」と認定されることで、「惚れている」ことになる。</p>

<p>※3<br />
　もちろん「先生」は意味なんて知りません。分析家は（米国的俗流「精神分析」が時々示すような）「夢を解読し『本当のこと』を教えてくれる人」ではありません。<br />
　カウンセラー的立場の人は、あまり人の話を聞きすぎてはいけません。<br />
　わたしはよく「今日の一日報告」と言います。子供が帰宅すると、夕飯の支度などをしているお母さんに「報告」します。「今日な、さっちゃんがな、コケてな、そんで･･･」。この時、お母さんがマトモに子供の目を見て真剣に「聞いて」しまったら、かえって子供は言葉を紡げなくなってしまうでしょう。大根でも切りながら「ふーん、よかったねぇ」くらいが丁度良いのです。<br />
　そしてお母さんは、さっちゃんのことなんて大して興味がないし、子供の伝えたいことをすべて理解できるわけでもないし、次の日には報告の内容など忘れています。もちろん、子供本人も。<br />
　もちろん、「わかってくれそうに見える」ことは、非常に重要です。<br />
　そして<a href="http://d.hatena.ne.jp/lovecall/20070808/p1" target="_blank">「女の子は聞き上手が大好き」</a>（by <a href="http://d.hatena.ne.jp/lovecall/" target="_blank">べにぢょのらぶこーる</a>さん）です。<br />
　以下も参照。<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2005/08/post_90.html">「わかることとわからないこと 意味・理解・翻訳」</a><br />
<a href="http://ish.parfe.jp/mt/archives/001007.html">「決めてもらうこと、決めること、知っていると想定される主体」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/06/post_237.html">「『斜めから見る』スラヴォイ・ジジェク」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/a.html">「アンドリュー・パーカー『眼の誕生』と対象aとしての眼差し」</a></p>

<p>※4<br />
　「テクストの<真意>を保証するものは何か」という問題については、<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/10/post_257.html">「ブログ記事評価におけるテクストの自律性を問おうとして人格概念と意味についての議論にはまりこんでみる」</a>を参照。</p>

<p>※5<br />
　「書く」時、「書かれたもの」として<わたし>が一人の死者となる時とは、死体になった<わたし>を乗せた電車が去っていくのを、残された<わたし>ホームから眺めている時です。この別離そのものが、仲裁として機能しているのです。<br />
　<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_400.html">「メールを出さなければ電車に乗り遅れられるのか、誰が電車に乗ったのか、愛は終着駅で致命的出会いにたどり着くのか」</a>参照。</p>

<p>※6<br />
　語り続けることと『千夜一夜物語』、「砂の民」については<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/web.html">「webは「砂の文明」である」</a>参照。</p>]]>
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<title>『聖典「クルアーン」の思想』大川玲子</title>
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<issued>2007-08-06T19:03:47Z</issued>
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<summary type="text/plain"><![CDATA[&nbsp;『聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観』 大川玲子 　良書です。 　なぜ今まで手にとっていなかったのか、不思議なくらいです。 　第一章はク...]]></summary>
<author>
<name>zkishyou</name>
<url>http://ish.chu.jp/blog/</url>
<email>zkishyou@s9.dion.ne.jp</email>
</author>
<dc:subject>文学・思想</dc:subject>
<content type="text/html" mode="escaped" xml:lang="ja" xml:base="http://ish.chu.jp/blog/">
<![CDATA[<p><a href="http://www.amazon.co.jp/gp/product/4061497111%3ftag=ish-22%26link_code=xm2%26camp=2025%26dev-t=0BRZDAPKX6TW4C5BR3R2" target="_blank" rel="nofollow"><img src="http://ec1.images-amazon.com/images/I/216QMH7TNGL.jpg" alt="『聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観 現代新書』 大川玲子" style="border:0px;">&nbsp;『聖典「クルアーン」の思想――イスラームの世界観』 大川玲子</a></p>

<p>　良書です。<br />
　なぜ今まで手にとっていなかったのか、不思議なくらいです。<br />
　第一章はクルアーン（コーラン）およびイスラームの概説、第二章はキリスト教・ユダヤ教の聖書とクルアーンの関係。第三章では、クルアーンのアーキタイプとして天にあると想定される「天の書」が論じられます。そして第四章が、日本人とクルアーンの関係に充てられています。<br />
　特に第四章は、戦前亜細亜主義におけるイスラーム理解が論じられているほか、各種日本語訳の比較・紹介等があり、大変興味深く読めました。これからクルアーンを学びたい、とりあえず日本語訳を読んでみたい、という方にとって絶好のコンシェルジュとなっています。</p>]]>
<![CDATA[<p>　「天の書」の想定には大きく二つの機能があり、一つは「運命」、つまり「すべては既に書かれている」ということ。もう一つは、例えばモーセがいわゆる「十戒」を一度に「下ろされて」いるのに対し、クルアーンがムハンマドの口を通じ順次下されていることが、「啓典の民」から批判されたこと。そのため、クルアーンも「本体」はまとまってあり、それがあるところ（最下天と言われる「天」の最下層領域）までは一度に下ろされ、そこから順次啓示という形で示された、という解釈を示す必要があったようです。ネットワーク内のサーバに一度ダウンロードして、各ホストはそこに取りに行くようなイメージです。<br />
　「すべては書かれている」運命論は、アングロ・サクソンの嫌悪するところで、そのため彼らの自由論は「選ぶ」自由という形を取り、高度資本主義下の消費様式にもこれが反映されています。しかし、「書かれている」か否かはともかく、わたしたちは何も選べたりしていないわけで、むしろ選べないことを承知の上で「選んだ」と叫ぶ道を「選ぶ」ことにしか自由はありません。これは他のすべての自由（ピザのトッピングを選ぶような自由）を犠牲にして、「選べない者として在る自由」を選択することです(※1)。この辺りがおそらくイスラームの思想の内部にも見出せるのではないのかと思うのですが、本書ではそこまで踏み込んだ議論はされていません。</p>

<p>　重い腰をあげてクルアーンを学ぼうとしているのですが、アラビア語ができないのは実に痛いです。クルアーンは原則として翻訳を認めないものですし（いわゆる「翻訳」は「意訳」として解釈の一種のような位置づけをされている）、何よりアラビア語で読まれた時の音が素晴らしく美しい。気合いでアラビア語を勉強しようかとも思うのですが、愛するNHKラジオ講座にも科目がなく、何から手をつけてよいやらもわからない状態です。<br />
　ちなみにキリスト教の聖書についても、ラテン系の言語で読むと日本語より格段にしっくり来ます。元を辿ればヘブライ語でしょうが、ラテン語がスタンダードであった長い歴史がありますから、これに近い状態のものが一番美しく詠じられるようにできているのではないでしょうか。「主の祈り」もフランス語が一番馴染めます（残念ながらラテン語はわからないので）。英語は古い英語のものも含めて、どこかトゲトゲしくて心が落ち着かない気がします。まったくの個人的偏見ですが。</p>

<p>※1<br />
　この「自由」については以下参照。<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_349.html">「ムッソリーニ、人種、自由」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/06/post_375.html">「スラヴォイ・ジジェク『人権と国家』、寛容と自由」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/05/post_361.html">「自由意志、自己決定、「他者を手段としてのみならず同時に目的として扱え」」</a></p>

<p><br />
イスラーム関連記事：<br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/api.html">「大川周明とイスラーム、日本のイスラーム化と「さておかれない冗談」」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/12/post_281.html">「日本のムスリム社会、日本人ムスリム」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/07/post_413.html">「非ムスリムがブルカで出社する」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/03/post_325.html">「『アメリカの中のイスラーム』 大類久恵」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2006/07/post_240.html">「『イスラーム戦争の時代』 内藤正典」</a><br />
<a href="http://ish.chu.jp/blog/archives/2007/01/post_302.html">「中東イスラーム民族史―競合するアラブ、イラン、トルコ」</a></p>]]>
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