他人、他認、「アイデンティティ」
絶対的な第三者が最初から導入されなかった場合、わたしは愛する者とまったく同じになる。関係するのではなく、模倣する。
内界と外界のズレ、自他の認識の違い、これらが「あって当たり前」の時(つまり普通の時)、これらは事実上「無い」。この無さこそが、第三項の効果である。
違いはもちろんあるのだが、それは振り返って初めて「あると言えば確かにある」という有り様であり、ことさらに前景に張り付くことがない。少なくともそこから目をそらすことが可能である。
一方、それが「ある」時、認識はされず、別の何かとして実体化する。それは「声」のようなもので、目をそらすことのできないものだ。愛する者とまったく同じになってしまったがゆえに、違いの無さが無いままに侵入するのだ。
だから例えば、「幻覚が見える」という表現は正確には適切ではない。
正当な眠り
わたしの願望は眠ることだ。
正当な眠りは、どんな代価で買うことができるのだろうか。
吝嗇、恋愛、インスタンス変数
「不幸自慢」の吝嗇さと恋愛は実は深く関係している。
その前に「不幸自慢」のことを確認すれば、正にこれこそナルシシズムの産物である。自分を「幼児的ナルシスト」と分析するわたしに「むしろ自己嫌悪という印象があるけれど」と指摘した人がいるが、自己嫌悪を露にするということは、要するに自己憐憫に耽っているということであり「不幸なわたし、思い通りにならないわたし」を演出しているにすぎない。
想像的合わせ鏡のナルシシズムだ。
恋愛は常に、
1 勘違いであり、それを「知って」いながら補正できず、かつ可能であったとしてもしようとしない。
2 思い通りにはならないが、「思い通りにならない」ということは「思い」通りである。
それゆえ、原則としてナルシシズム的なものではあるが、一方で性器的昇華の契機を孕んでいるのは、「出会い損ね」が再現されているからだ。
つまり「思い通りにならないそれは、これである」という具体化により、その他のことは思い通りにしてしまっていることを認めている。
「思い通りにならない」ことは思い通りにしているゆえ、快楽を露にし、「不幸自慢」のナルシシズムを超えているのだ。
重要なのは、すべてが思い通りにならないのではなく、少なくとも一つ思い通りにならないことがある、ということである。両者はまったく反対の意味を持つ。
すべてが思い通りにならないことは、すべてが思い通りになるのとほとんど一緒であり、可能性という名のもとにすべてを留保し身を守る態度である。
これを超え、有限の生へと不承不承進むことは、すなわち思い通りにならないことが少なくとも一つある、ということを体現することなのだ。
次の三つを正確に区別しなければならない。
1 「思い通りにならない」という概念が世界に存在する。(「先験的」に見える形で。実際にあるかどうかはともかく、この概念を理性により想像可能である、ということ)
2 「思い通りにならない」ことが経験世界に存在する。(実際にそういうことが世の中にはある、とういこと)
3 自分にとって「思い通りにならない」ことはコレである、というものが存在する。
以上の三つは、
1 クラス
2 インスタンス
3 インスタンスへの参照を代入した変数
と考えると非常にわかりやすい。
でもよく考えると、やっぱり全然わかりやすくないかもしれない。
別の言い方をすれば、
1 神
2 過去
3 恋愛対象
になるが、もっとわかりにくいかもしれない。
要するに、恋愛とは「思い通りにならない」ことが(メモリ上に展開し)具体化したものへの参照を代入した変数である。この段階にいたってはじめて、わたしたちは「少なくとも一つ思い通りにならないことがある」ことを通じて、十分に快楽し、それゆえ死に至る享楽は回避する「オトナ」でありうるのだ。
吝嗇と不幸自慢を超える重要な契機が、恋愛には含まれている。
2005年04月16日変な目
「変な目で見られる」という表現は変だ。変なのは見られたわたしであって、見ている目ではない。
しかしやはり、変な目こそ変だ。ここでの目は、光の取り込み口としての目ではない。見ている何か、正確には見ているものとして見えている目、そのような目が変なのだ。例えば、擬態の目は見るのではなく見ているように見られるためにある。見ることより、見られることが先立つ。
変な目は受像ずるのではなく「見える」ものだ。そこに「他我」を読み込み「相手の立場から見」てしまうと、既に相対主義の泥沼へと一歩足を踏み入れている。可能世界は端的に存在しない。
変な目が見ているのだ。
そしてその目は目に見えるのだ。見えてしまった瞬間から、わたしは世界との関係でしかわたしを見ることができなくなる。
そういう時、「あの人は変になった」と解釈してしまうと、一番重要なものを取りこぼしてしまう。変な目で見られて、初めてわたしは変なものとして浮き立ち、存在する。
「お前はここに来るべきじゃなかった」。
そう言われたものだけが、そこに存在する。
変な目は禁止によって補足し、許可する。
目的地は違う、バスは同じ、だがどこにも到着しない
エロティックなものは「ひっかかり」のようなもので、グッときても一瞬先はわからない。多分、圧倒的に暴力的なもの、他人の欲情をかすめ取るようなものが一番エロいのだろう。
他人がわたしを見てその人なりのエロを投影していることもあるのだろうけれど、これもさっぱりわからない。気付きもしない。他人が自分に見るエロさには常に手が届かない。
しかしこれは当たり前のことで、欲情というのは何かが隠されること、対象の細部が覆われてしまうことによって成り立つのだ。正確には、そこに何もないことが隠されることによって、合わせ鏡的なナルシシズムがインフレイトしているのであり、むしろ理解を拒むところにこそエロティシズムの骨頂がある。
書かれなかった日記
いつも書いた後で書くべきだったことを思い出す。
書くべきで書かれなかった何かは、ただ書かれ損なうためにすり抜ける。絶好の機会という匂いだけを、可能性の名を借りた現実として残しながら。
これこそが出会いの本質だが、writng is rewritingというように、何度でも何度もわたしたちは出会い損ねようとする。
誰が成功したのか。かつてわたしだったが、出会い損ねと共に消え去った何者かが。
書かれ損なったまま閉じていくページの隙間に向かって、針飛びのように永遠のフェイドアウトを繰り返す主体が。
完全さについての予想される疑問
一応補足しておけば、完全なる過去の完全性とは、価値判断とはまったく関係ない。「良い過去」「誇らしい過去」などといった物語は、この完全性のずっと後の話だ。
ある過去が存在した時、その存在の内実が常についてまわる、ということにこそ、完全なる過去という偏執がある。ただ存在する過去、ありようだけがあり存在しない過去、といったものは認められず、硬直した一対一対応が期待される、ということだ。
呪文のように繰り返されるレコードの針飛び、(神経症的でも倒錯的でもないという意味で)精神病的な構造。
完全なる過去の貞操帯
2005年04月03日完全なる過去
こんなに素晴らしいものに囲まれているのに、わたしは何を恐れているのだろう。なぜ刀から手を離せず、緊張のあまり握りしめた拳を自分で解く事もできなくなっているのだろう。
固く閉じて、自身を縛り付けておかないと、バラバラになってしまいそうで恐ろしいのだ。でもなぜこうまで? 皆今日にも死にそうになったりせず、道を歩いているではないか。
おそらくこれは、卑しいナルシシズムなのだ。単に幼児的なのだ。自身についてもそれ以外についても、醜いものが許せないのだ。だから自信が追いつかないのだ。
多分、きっと、単に馬鹿にしてくれる人が欲しいのだろう。馬鹿にされることを許せる人が、むしろそれが喜びとなる人が。わたしが卑小であることが、それ自体価値となる関係が。「かわいい」と言われることが。
あまりにも基本的すぎて、気付く人もいないような事柄について、決定的に学習経験が欠けている。過去の不足というよりはむしろ、過去の欠如に対する諦念の不足。
誰にも完全な過去などないのだ。
2005年04月03日転ぶ
功を焦ると転ぶ。わたしはいつも転ぶ。転んだことをすぐ忘れるのでまた転ぶ。
こんなによく転ぶのは、実は転ぶのが好きだからじゃないのか、と薄々気付いているのだけれど、気付いているのを気付かれると恥ずかしいので、気付いていないフリをしてまた転ぶ。そのうち頭を打って本当に忘れてまた転ぶ。
ここ
ここについては、面白いことやキャッチーなことを書こう、という意志がほとんどない。重要なことだけメモしておく。愛想は悪い。そういう場が一つくらいあってもバチはあたらないだろう。
でもよく考えてみると、わたしたちがやらないことで、その理由がバチが当たるから、というものはほとんどない。