死んだも同然だから生きられる
「あんまり死ぬのを怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」。
確か北野武『ソナチネ』の中のセリフだ。
これほど的確に神経症者の構造を言い当てている言葉も珍しい。
神経症者(つまり普通の人)は、本当に死んでしまわないために、死にそうな理由を様々に作り上げて防衛する。
「死んだも同然」であればわざわざ死ぬ必要がなくなるからだ。
それゆえ、彼らが「治る」、あるいは症状を移行させるには、簡単な事実を一つ思い知らされるだけで良い。
つまり、わざわざ「死んだも同然」を作り出さなくても、生きているということは既に「死んだも同然」であるということを。
尤も、これを思い知るのは誰にとっても簡単なことではないが。
2005年05月21日自分の名前の入れ墨すること
「身に覚えのない記憶」。
自分の身体に入れた自分の名前の入れ墨。
移り行き信用ならない「ココロ」のすべてを放棄してもなお、誰かにとっては存在し続けるための刻印。
「わたし」とは結局、この放棄を通してしか流通しえない、永遠のfadingに他ならない。
わたしがわたしなのは、わたしがいない時だけだ。
子供の頃、持ち物には名前を書くように言われた。
入れ墨で入れる名前は大抵は恋人の名であって、つまりは自分の所有者を明示している。
自分の名前を入れ墨する時、それはあくまで自己の自己所有を主張するナルシシズムを表象しているようだが、この想像的閉鎖回路は決して動作しない。
なぜなら、名前を刻印された「わたし」はモノとなり、永遠にわたしの手を離れてしまうからだ。そして刻印の効果とは、正にこの別離に他ならない。
わたしがいなくなっても、わたしがわたしでいられるための印。
わたしの死体が浜辺に打ち上げられて、解剖される時のための目印。
他人の記憶を思い出す
例えば、著しく異なる人格へとシフトした場合。
「本人」のものであるはずの記憶が、常によそよそしい。
「記憶喪失」の逆のようで、実は核心はほとんど一つだろう。「わたしが誰であったのか」についての違和感だ。
そして、記憶は常に他人の記憶だ。
思い出す時、そこに「わたし」はいない。いないものが「わたし」だ。
ある風景に欠けている何かとして「わたし」は指定されるし、「わたし」が見える時、そこの「わたし」はいない。
この明滅、夢における在不在交代が主体を示す。
それゆえ、主体とは「それはわたしではない」という拒絶とともにしか現れない。
他人の記憶しか思い出せない。あるいは、過去のない人間になる。
ほとんどの人間が、社会的人格を喪失しないままこれをやり遂げている。
一貫して一つの名を与えられ、認め、消え去った「わたし」もまた「わたし」と言う。つまり、明滅してもどこかで第三者が保証しているゆえに、主体が成立するのだ。
敢えて「実際に」過去を消さないではいられない人間がいる。
保証が足りないのだ。
「わたし」が「わたし」でなくなっても、むしろそれゆえにこそ「わたし」は「わたし」であるのに、視界から消えたものは存在しなくなったのではないのか、という不信を拭いきれないのだ。
そういう者が、過去を消す。
いずれにせよ、彼/彼女は別の人間として同じ場所に帰ってくる。
いくらか「治療」され、いくらかこの世界に慣れた人間として。
肥大したものを治療する、穴、過去
肥大したものを「治療」する、わかりやすい好例を知っているではないか!
何かが問題だとすれば、それは「無い」が無いことだ。無いものが本当に無いと、すべてが有り、世界は硬直して身動きできなくなる。だから、「内界と外界のズレ」「自認と他認のズレ」が許容されなくなる。許容される、という可能性自体が抹消されるため、許容する/しないという形ですら語り得なくなる。
そしてわたしは愛するものとまったく同型となる。模倣による侵入。
「無い」が無いままに実体化する「症状」が生まれるのは、このためである。
この肥大したものを「治療」するなら、腫れを裏返して穴にすればよい。腫れの突端には穴があいているが、裏返せば穴の奥に穴ができる。
「無い」があれば、わたしたちは安心して世界から撤退できる。撤退しても戻ってくることができるからだ。眠って、また目覚めても、有るものが有ることができる。
常に見張ってなくても大丈夫。
腫れが穴になるのは、「無いが有るとすればそれはこれ」という参照の効果のためだ。穴がなくても穴はあるが、穴がなければどこに穴があるのかわからない。
もちろん、物理的には穴はない。それでも物理的に存在するように見えることが、これを参照子として機能させる(参照を代入した変数、ポインタ)。
肛門は構造として存在するだろうか? 端的に、それは無い(あれば、糞便は排泄できない)。肛門の機能が存在するだけだ。
腫れを裏返して穴にすることは、過去を縫合することでもある。
それは経験的時系列の中に、「無い」の導入を遡及的に位置づけることでもあるが、過去の無さを確立することでもある。過去はないが、語ることができる。穴は端的に無いが、機能している。
過去は改竄できるが、過去の改竄は不正義とされている。
これは「無くなったもの(亡くなったもの)は変わらない」という経験世界を守る倫理である(経験世界は科学ではなく倫理によって守られるのだ!)。翻せば、それは禁を破ることによって改竄される。この改竄は「こっそり」行われる。改竄が無かったかのように。
腫れを裏返して穴にした者たちが、過去を「偽る」のは当然のことだ。
この者たちの過去は、不完全さという完全さを備えたものとして、初めて生成されたのだから。
それ以外に、過去はない(それゆえ、逆説的にもこれはいわゆる改竄ではない、初めて書かれたのだから)。
過去は常に無いが、無いものとしてすら、その時までなかったのだ。
この者たちは、無いが無い世界に住んでいたのだから。
「完全な過去はない」と一般にさらりと言われる時、彼らは経験世界の不完全さや、「人間は常に不完全なもの」といった通念を語っている。
この語りはもちろん、間違っているが、この間違いが広くまかり通っていることには、真理がある。
彼らの間違いは、過去というものの内容的な完全さをもって、過去自体の完全さに言及しているつもりになっていることだ。充実した過去、輝かしい過去、といったように。
そしてこれが、過去の存在の完全さであるかのように認識されるのは、正に数直線的な時系列が、倫理によって守られているものであることを証している。
人が過去に触れる時、無いが有ること、経験世界が(わたしの代わりに)物質になってくれたこと、その核心に迫ることになる。なんとしても、倫理によって守らなければならない。
穴は無い過去として掘られ、改竄というよりはむしろ改竄可能なものの創設として出来上がるが、その奥には穴がある。完全な過去はない。
しかし穴の奥の穴は、穴の中にあるので見えなくなる。腫れの突端に空いた穴のように、不可能なものとして「見え」たりはしない。
もう安心して眠ることができる。
不可能なものは確かに奥にあるのだが、それは無いもの、無いままに機能するもの、つまり過去の奥に埋め込まれてしまったので、寝ずの番からは解放される。
死者は蘇らず、神は大抵何もしない。
肥大したものを「治療」する、わかりやすい好例を知っているではないか!
(あまりにわかりやすく、重大なため、敢えて明示的表現を避ける)