むしろ出会わないために
本当に皆、出会いを求めているのだろうか。
出会ってしまうのは恐ろしいことだ。
何と出会うのか。
決定的なもの、決められてしまうものに。「お前は……」と、名付けるものに。
この出会いは致命的で、「出会ったが最後」だ。
出会おうとして、出会い損ねる、このホメオスタシス、「穴の回りを廻る」ことにこそ核心がある。
しかし一方で、やはり「最後」には出会ってしまうのであり、つまりは出会わせる何か、という力動についても考えないわけにはいかないのだが。
ナイーヴな二元論としてしばしば批判されるフロイトが、実に正鵠を得ているのはこの点だ。
このあり得ないはずのニ元性に目を閉ざしてしむほうが、よほど愚劣なのだ。
生きない生き方
生まれていない者には死にようもない。
これこそ強迫的防衛の核心だが、それでもなお、生まれてしまったことを「知って」はいる。
「何も悪いことなどしていないのに!」
そう叫ぶ時、既に冒した罪の名をわかっている。
ただ防衛が強固なのは、正にこの罪自体によってもさらに、「生き地獄の刑」に正当性が加えられるところにある。
刑期が終わるまでは死ぬことはないし、生まれることもない。
それも「生き方」というなら、生きないより他に生きる方法などないのかもしれない。
2005年06月12日借財を残す義務
神がいなかえればすべてが許されるのではなく、許されるものは何もなくなる。
だから神はいてくれないと困るけれど、そこでの試練とは、許されるものが限られていることではなく、何が許されて何が許されないのかわからないことだ。
何かが許され、何かが許されないが、とにかく今日も一歩踏み出さないわけにはいかない。
罪と借財こそ後世へと引き継がれるべく生産されるものだ。
勇敢な睡眠のための一メモ
素晴らしいものに触れることで怒りを忘れてしまうのは不安でもある。
だがその怒りもまた、オリジナルではない。
何かを防衛し足を踏み出さないでいるための符牒にすぎない。
すべての怒りは「義憤」であり、正当性こそが、快感原則のホメオスタシスを最も強固に守り抜くのだ。
義憤という名の吝嗇を越えさせるのは、一人の証人である。
熱力学の第一法則という揺り籠を出る時、普通ヒトは、それを見届ける者を求める。
つまりは神という遍在性の代理人であり、メモリ上に実体化した(時間化した)構造への参照を示す変数である。
だから結局、恋愛という具体性もまた卑劣な防壁にすぎないわけだが、流れ終わるという一点において、肛門的吝嗇を越えてはいる。
それが何ほどのことか、という疑問はもちろん残しながら。
実際、この代理人が背負っているのは既にconcreateされた流れであり、世界の構造などではない。
それはわたしが何をしているのかを教えてくれるが、誰なのかを解き明かしてはくれない。
ただwhatをもってwhoに代えるささやかな勇気と諦念、そして重要なことに、往生際の悪さを与えてくる、ということは忘れるべきではないが。
わたしは何事につけ大げさに過ぎる。
同じ場所にばかり戻ってくるが、この弱さだけが悪であり、問題のすべてなのだろう。
今日はもう眠る。