純粋快楽
純粋な快楽というのをどこかに保存しておきたい。しかしこれは難しことだ。
セックス? 食べ吐き?
これを形にしておきたい、変数に代入しておきたい、というのは、要するにそういう純粋快楽が何もないからだ。
だからこそ、死ぬギリギリくらいにいる方が常に快楽を貪れて楽と言えば楽なのだ。拒食と過食を繰り返すのもそういうことだろう。非常にわかりやすい。
おそらくこの定式化された快楽の最たるものが人格なのだ。わたしには壮大なフィクションと一体化してしまおうとした過去があるが、人格を持つということがすなわち、循環と摩擦のマスターベーションに他ならないからだ。
ところが驚いたことに、人間たちはそれを自慰と知らずに日々繰り返しているのだ! これは本当に、とても不思議なことだ。つまり、ここで生まれた快楽は神様にでも送信されているらしい。
そうしている間にも時間は流れ、朝が来て、また朝が来て、朝が来る。ある日突然来なくなって、代わりに誰が来るのかは知らない。
この世界は美しい。
法
あまりにも多く与えられてしまったものを奪われないために、予め失っておく。
吹き出物の治療。
許されすぎていること
吝嗇なる肛門的精神の考えるところとは結局、
「どうしたらわたしは許してもらえるの? これだけやっているのに、まだだめなの?」
というものだ。
諸々の強迫的ルールは、許可を得るために構築される。あたかも与えられたかの如く、作り上げられる。
しかし当の本人もわかっているのだ。許可など永遠に出ないことを。なぜなら許しは既に得られてしまっているのであり、これ以上なすべきことなど何も残っていないのだ。
慣性は、誕生それ自体によって十分与えられている。
その中で何かすることがあるとしたら、それは逆説的にも慣性を終わらせること、地平線の向こうへの永遠の落下という軌道を外れ、大気に焼かれる道を模索することでしかない。
出会いを求める諸々のパフォーマンスとは、畢竟ここに帰着する。
もちろん、この願いがすぐさまかなえられてしまってはやはり困るわけで、つまりは少なくとも二つの志向性がある。
そしておそらく、この二律背反を仲裁する第三の力が。