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2005年09月11日

変わっていくわたし、欲望の余白、転移

 「変わっていくわたし」を心地よく眺められるのは、変わらず見ているものがいる時だ。
 「変わってしまったわたし」が苦しめるときも、同じように見ているものがいる。

 見ているものもわたしなのだが、そのわたしを保障するものがない以上、固着点(アンカー)が必要になる。アンカーと見ているわたしは共犯関係にある。なぜならアンカー自体にも特段の根拠はない以上、見ているわたしとアンカーは相互安全保障という幻想によってのみお互いが成立しているからだ(S/<>a)。

 少し卑近に考えてみる。

 見ているものが定かでなくなってしまったとき、つまりアンカーがあやふやになり(欲望のmarginがショートカットされてしまい)「見ているわたし」以外に頼るものがなくなると、「変わっていくわたし」は致命的になる。それは既にわたしではなくなり、わたしは過去を持たなくなるからだ。
 だから、実はわたしが重要なようでアンカーこそが最後の頼りだ。
 わたしたちはナルシシズムの外部には出られないが、一方でナルシシズムをショートカットすることもできない。完全なショートカットは去勢の「排除」であり、シュレーバーだ。

 欲望の成り立つmarginとは、転移の起こる余白でもある。

2005年09月08日

物語の内外

 物語の方にも行ききれない。
 物語の外にも出られない。

 世界のすべて(目に写るすべて)を物語に押し込むこともできなければ、目的を排除し切ることもできない。目的と原因は常に結果的に読み込まれる以上、原理から取り除いたとしても失敗が原因を作る。

 これは疎外と分離にも対応する。つまり、モノとしてのわたしと、語られるものとしてのわたしに。
 位置づけを持つものと、位置から独立したもの。

2005年09月07日

 彼女はかわいい。でもかわいいと言われると彼女は複雑なのかもしれない。誰でも複雑なのだ、と言いたいけれど、どうも複雑じゃないヒトの方が多数派らしくて、でも彼女もわたしも多数派ではなく、それでもわたしと彼女はかなり違って、複雑なりに複雑さが違う気がする。
 自分が言われて複雑なセリフを平気でヒトに言ってしまうわたしはずうずうしい。しかしこの「ヒトを人とも思わない」ずうずうしさこそ、エロの本質でもある。驚いたことに、多くの男たちがこんな簡単なことに気付いていない。
 彼女はわたしを「エロい」と言って、その「エロい」はその言葉の使い方をわきまえている感じでとてもうれしい。人間のフリをするのは、結局「人間のようで人間ではない」時の落差を捏造するためなのだろう。女というものはそういうものだ。
 だがそこで醸成されたエロさと、そのエロさを活用できるドライブを持った人々の間には通底がない。そのとき、わたしたちは「オナジニンゲン」などでは決してないからだ。

 わたしたちは常に出会い損ねる。

 でもわたしは絶対に猫を飼わない。

2005年09月01日

疎外と分離、ホメオスタシスと死の欲動、あるいは様々な風景

 変わっていくわたしがわたしなのだろうか。
 変わっていくのを見ているわたしがわたしなのだろうか。

 まず、問いの立て方に微妙だが決定的な誤りがある。
 「変わっていく」ものは断片的な風景であり、自身が自身であることを知らない。それを「変わった」と見るのは見ているわたしである。風景はそれ自体においては連続しておらず、コマ落としのように寸断されている。これらの間に「共通項」があるにせよ、それはパンダとメロンにもある公約数であり、しかも断片同士の間にはなんら交通がない。
 だから、もう少しだけ修正するなら、

 比較されるわたしがわたしなのだろうか。
 比較するわたしがわたしなのだろうか。

 とでもなるはずだ。
 ところで、「わたし」が何らかの連続性であるとしたら、それは見ているわたしの側にしかない。バラバラの風景に連続性を与えるのは、それらを一つに束ねるものだからだ。
 しかし、そうなると見ているわたし自身の同一性を保障するものが何もなくなってしまう。
 そのため、変化しないものとしての断片一つ一つに、見ているわたしはその同一性を期待するのだ。
 比較されるもの(あるいは「変わっていくもの」)は、比較の対象となる以上、一つ一つは変わらない「モノ」ととらえられている。それはかつてわたしであったモノ、わたしの確かな根拠、語らないでも価値をもつモノ、交換価値ではなく存在価値に訴えるモノだ。
 ところがモノとして一個にまとめられるのは単独の風景であり、見ているわたしがわたしという連続性を読み込むのは集合としての風景群である。つまり、モノとしてのわたしは不動であるもののバラバラで、うごめく肉片のようにまとまりを持たない。だからこそ数直線モデルの中で語り始めたわたしは、バラバラ死体に戻りきることもできないのだ。

 ホメオスタシスと死の欲動、あるいは疎外と分離について、こんな風に語ってみることもできる。



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