役割に対するナルシシズム
「役割に対するナルシシズム」という表現は、去勢を理解するうえでわかりやすいかもしれない。
存在に対するナルシシズムに陥ったものは、うまく「人間」になることができない。
役割に対するナルシシズムは、メタ化したナルシシズムであり、一見objectであることを放棄し永遠にfadeし続けるsubject(もちろん斜線を引かれた)として振舞っているようだが、その「役割」をモノとして「見て」と訴えている。
「こんなに<主体的>なボクを見て!」というわけだ。
フロイトが同一化に執心した所以である。
これはカプセル化した機能自体を構造としてとらえる「妥協案」とも言える。カプセル化することで、ナルシシズムは経済に出ることができる。あるいは、ナルシシズム自体を流通させることができる。
すると、このシステムが揺らいだとき(役割が失われたり、自我が余計なことをし始めたとき)の対処というのも比較的考えやすくなる。
重要なのはインターフェイスを動かさないことだ。つまり、役割は固持しなければならない。
だが、インターフェイスを維持するためには、カプセル内部にいつでも手を伸ばせる用意がなければならない。
ここに注意が向きすぎては役割に対するナルシシズムは成立しない。
一方で、インターフェイスを維持できる程度には、privateなフィールドを把握していなければならない。
何も作らないエンジニア
さっき気付いたけれど、どうしてこんなにもささやかな会話すら成り立たないのか、と思ったら、エンジニアには全然話が通じないのだった。すっかり忘れていた。
もちろん、わたしはエンジニアなどではない。
プログラマですらないかもしれない。
じゃぁなんやねん、と言われると答えに窮してしまうところが、本質的に犯罪者なのだ。
生まれたときから前科者。
なるほど、いつも焦っているわけだ。
ただまぁ、モノの相手はヒトの相手よりは気持ちいい。
モノよりもカタチがもっと素晴らしい。
カタチより神様が最高だ。
神様のことしか考えたくないけれど、GUCCIのブレスレットが欲しいから会社に行く。
2005年12月13日フラグメンテーション
人生は断片化している。
わたしは総合的に存在する。