唯一の現実
王子と従者と熊における唯一の現実は熊だ。
しかし、熊は現れない。
少なくとも王子や従者の考える「現実」の中には現れない。
ただ熊を巡るイメージと語らいだけがある。それは現実ではなく、現実の周囲を回るものであり、淵であり、つまりはそこが性感帯というわけだ。
現実が現れるのは世界の終点だが、そこはイメージの及ばぬ点であり、熊は永遠に現れない(現れたが最後)。
王子も従者も熊を知らないが、ただ違うのは、王子は従者なら熊のことを知っているだろうと考え、彼に導きを頼っていることだ。
王子と従者と熊
熊と出会い栄誉を勝ち取りたい王子と、危険を避けさせたい従者。
二人は森に入り、熊を探す。
王子は熊を求め、従者に導かせようとするが、従者は王子を守るため、巧みに獣を避ける。
こうしてホメオスタシスは保たれる。つまりsubject従者によって。
王子は声高に出会いを求めるが、彼らの行程には常に暗黙的にsubjectのメッセージが表明されている。
では王子は死だろうか。
とんでもない。
彼は戦いと名誉を求めてはいるが、死を望んでいるわけではない。
王子は閉じたファンタジーの中で夢見ている。
想像的「現実」というstoryでお喋りしているだけだ(個人心理学のなんと愚劣なことか!)。
すると死はどこにあるのだろう。
それは熊であり、確かに熊はいる。
だがどこにいるのか、人を襲うのかは、熊のみぞ知る、というわけだ。
少年の許可
許可を得るためにほとんどの少年が使う方法は、他なるものを媒介とする経済に参入することだ。つまりニキビ面の男の子たちの群れと混ざり、生涯そこにとどまる。
あるいは(もっと直接的に!)「法」の遵守により許可されようとする。もちろんこの「法」は彼自身の定めたものだが、決してそうは認めない肛門的症候もある。そして確かに、それを定めた(定めることができたはずの)「彼」は彼であって彼でないものなのだから、強迫神経症者には真理がある。
両者に共通する誤認は、いずれにせよ許可される方法がある、ということだ。
それゆえ、ほとんどの少年は致命的に醜悪になる。
既に許可されている、という少年がいる。
彼は美しい。そして既にニンゲンではない。
許可は必要ない、許可されるほどの財bienなど持っていない、という少年がいる。
自らの財の無さを証し立てるために血を厭わない少年がいる。
彼もまた美しい。そして既に少年ではない。
travel me
わたしを、旅する。
もちろん、探すべきはわたしなどではなく。
わたしではないもの、かつてわたしであったけれどわたしではないものを求めて。
その出会い損ねの平衡が破れるとき、旅は大気圏に突入し、燃え尽きるのだろう。
法則
すべては人間が決めているが、人間を個人の中に発見することはできない。
だがもちろん、存在する人間が個人なわけでもない。
個人は人間の中に発見されるが、この発見はたちまち塗りつぶされ、想像的な個人の群れだけが視界を覆い尽くす。