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2006年04月26日

何も起こらない

 神様はきっと、わたしが生まれたことにも気付いていない。
 だから大丈夫。だから大丈夫。
 恐竜の足元をチョロチョロ駆け巡る哺乳類のご先祖様みたいに、こっそり走り抜けてしまえばいい。

2006年04月16日

語り継がれる罪

 必要だからこそ呼び出されたのかと思えば、足りないのは別のものだった。
 まったくの役不足だったというわけだ。
 では退場すれば良しかというと、これもまた禁じられている。
 というのも、正にこの召還という既成事実により、「向こう側」の事情が変化しているからだ。
 行われているのは、一度獲得された予算の維持である。供給のために作り出された需要により、既に退路は断たれている。
 そのため、呼び出された者には、呼び出しによって捏造された「呼び出し元」に向かい、様々なダンス、様々なポーズにより、自らの相応しさを訴えるより他に道が残されていない。
 ここには明らかに一つの詐欺がある。
 詐欺を詐欺と知り続けるためには、法による保護が必要になる。
 この法が最大の罪として禁じるものこそ、この詐欺の告発であるのは、言うまでもない。だからこそ、告発=退場は「語り継がれる」最も美しい罪なのだ。

2006年04月14日

巡礼

 その完遂により、何かが完了できなかったことになる旅。
 明滅するものの走査。

2006年04月13日

原因

強すぎる母の話なら聞き飽きた。

2006年04月13日

物語

その過剰と不足により、失敗した「完全体」の二類型を作り出すもの。
手洗いに掲げられた看板。

2006年04月12日

母性本能

何かが禁止しなければ、決して投資に回ることのない巨財を貯め込むもの。
埋められたまま忘れられた拾い物というよりはむしろ、永久機関の幻想。
あるいは腐乱しない糞便。

2006年04月10日

幽霊を信じない幽霊

 幽霊を信じない幽霊は存在するだろうか。
 「存在するだろうね、少なくとも幽霊を信じる人々の心の中には」。
 これが機知の名に値するのかどうかはわからないが、少なくともこれを可能にさせるディスクールがある。つまり「心の中に存在する」という、おなじみの「三者一両損」だ。
 このトリックは、一見子供騙しの滑稽のようではあるが、実は存在とは、まさに「一両損」の「損」に他ならない。
 すなわち、わたしはわたしの存在するところには存在しない。
 そういうわけで、幽霊を信じない幽霊が、うっかり存在してしまうことがある。
 何が「うっかり」なのかと言えば、この幽霊が、自分の存在に気付いてしまうことがある、というところだ!

2006年04月09日

汝閉経するなかれ

 わたしはもちろん、「閉経後の女は女ではない」などとは思っていない。
 しかし、その存立自体が、「閉経後の女は女ではない」とする何かによって基礎づけられた「女」が存在する。
 例えば、わたしが帰化申請した旅団の者は、まさに「閉経後の女は女ではない、その閉経後の女」である。
 まず、一つの問いがある。閉経後の女が女ではないとしたら、それは一体何なのか。
 もちろん、正に「彼女」こそが女である。
 まったく過不足なく、語の真の意味で女である。
 それゆえにこそ、「閉経後の女は女ではない」という、防衛的ファンタジーが必要とされたのだ。まぎれもなく女であるような、圧倒的で不気味なものを視界から遮断するために。そこに何かが「ない」ことを隠す為にこそ、ミニスカートが存在するように。

 しかしここで、ゲームの外に放り出す作業がうまくいかない場合がある。
 つまり「閉経後の女は女ではない」として放り出す女を作り出すことに失敗したため、「閉経前」の女を獲得できない、という事態だ。
 言うまでもなく、この場合にすべての女が「閉経前」とはならない。神がいなければすべてが許されるだろうか? 否、神がいなかければ許されるものは何もなくなる!
 そういうわけで、歴史の大分後になってから、「閉経後の女は女ではない、その閉経後の女」を作り出す物語が生まれる。
 もちろん、その女は目に見えない。見える女はすべからく「閉経前」なのだが、この物語で独特なのは、ただ「閉経前」と「閉経後」があるのではなく、ファンタジーの内部に交換不可能なコードが出現する、という点だ。これは不参加の女が硬直的にねつ造された結果である。
 つまり、ここには次の驚くべき法がある。
 「閉経するなかれ」。
 そういうわけで、わたしは簡単に閉経するわけにはいかない。

2006年04月08日

不参加者の不足により、川に飛び込む

 母に不足を見つけられないと、わたしは役割という形での許可が難しくなる。
 このとてもよく知られた事情のお陰で、使用価値なるイメージを借りた交換価値に代わり、「存在価値」とでも呼ぶべきトリックが試みられることになる。
 存在を認可するのは、(わたしとよく似た)具体的な他者ではなく、他者の全体性だ。
 つまり、永遠に確かな答えを与えてくれないものの、常に何らかの「意図」は想定できる、そのような者にお伺いを立てるべく、自らの身体にリボンを結んで「どうぞ」と賭ける結果になる。
 あるいは川に飛び込んで、正にその飛び込みによって、下された判決が溺死刑であるかを確かめる。

 何が足りなかったのか?
 もちろん、不足などない!
 なかったのは、ゲームに参加しなかったものだ。



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