問いのないところに答えを出す
答えのないところに問いを立ててしまう者がいる一方、問いのないところに答えを示す者がいる。
時にこれらの症候が響き合い、「ゴールイン」が実現されるが、それは両者が相補的関係にあるからではない。
完全ではない二種類の者がいるわけではない。
「完全ではない二種類の者」を見ることができると想定される一者がいる。
もちろん、そのような一者がそれ自体で存在しているわけではないが、あらゆる種類の「不完全さ」があらゆる種類の「もう一方」を遡行的に想定させ、一者を必然に見せかける。
これ以上死なない
少なくない者たちが、「これ以上死なない」ために死を選ぶ。
しかし、それよりもずっと多い者たちが、死なないでも「これ以上死なない」でいられる。
彼らが死なないでも「これ以上死なない」のは、既に十分に死んでいるからだ。
「これ以上死なない」程度に死んでいて、なおかつ死に至らない閾がある。
ただ、その閾に既に達していることを忘れないでいることが、時々難しい。
見ているわたし
鏡の中に、唯一映りそこなったもの。
fadeする切り裂かれた主体。
騙せてしまう
致命的なのは、嘘や演技を見抜かれることではない。
最後の一人までもが見事に騙されてしまうことだ。
「暗黙のメッセージ」が誰にも受け取られることなく、「真意」を解釈してくれる者が一人も残らないことだ。
絶対的な第三者が不在であるなら、人は自分の演技に責任を持たなければならない。
この演技とは、気がついたときには背負わされていた債務のことである。
それゆえ、「演技しない」という選択肢は実体を持たない。
演技する主体に、演技が先立っているからだ。
しかし、事態が単純でないことには、例えわたしたちが演技せずに「真意」を言明することができたとしても、それが「真意」であることを保証するものが何もない、ということだ。
つまり、いずれにせよ「真意」は受け取られない。
<わたし>が誰も騙していなくても、必ず人は騙される。
問題は振り出しに戻る。
たとえ最後の一人までもが騙されることがわかっていたとしても、わたしたちは最後の一人を信じなければならない。
そうでなければ、わたしたちは嘘をつくことすらできない。
背負わされた債務は、その総額すらわからず、返せる当てもないが、返せると信じなければ、債務を背負うことすらできない。
2006年10月10日物真似しかできない者たちの錨
独我論的意味での<わたし>が個物の単独性(paticularであること)に還元できるか否かはひとまずおいて。
少なくとも、個別性ではない単独性(註1)が思考される場と、独我論的思考が涵養される環境は近親的で、その空間においては単独性の「証明」こそが死命を分かつと感じられる。去勢が抑圧されるのではなく排除された場合、語る者をピン止めしている暗黙のコンテキストは「モノマネ」的にしか導入されず、常に「崩壊寸前」だからだ。精神病親和的人格が「大きな物語」を求めるのは、「これ」をピン止めするための生地を改めて読み直そうとする試みである、とも言える。
「大きな物語」に親しい者たちは、「文字通り」「額面どおり」に解釈してしまう。
暗黙のコンテキストをうまく読み込めた者たちは、すべての言葉が移ろい行き言語経済の中にfadeしたとしても、一切の支えを失って漂流してしまわない繋留点を確保している。もちろん、この錨はそれとして名指せるものではない(註2)。誰も自分が繋留されているポイントを示すことはできないし、繋留されていると認識することもない(繋留点を大きな声で喧伝する者は、むしろ錨を持たないために「大きな物語」を必要とするパラノイアだ)。また錨の先はただの柔らかいヘドロかもしれない。ただ、彼らは言葉が流れてしまうことに焦ることはない。「失敗した」人々にとって、これは致命的である。なぜなら、彼らにとって物語だけが最後の砦だからだ。だから物語はなんとしても「額面どおり」でないと困る。
そこで彼らは、単独性の証明にも物語の力を使おうとする。
例えば、類と個というフレームワーク。これは物語であり、ツールにすぎないが、「額面どおり」の人びとにとっては世界のすべてである。
類と個の範囲が一致するものがあるとしたら、それは単独的であるように見える。一本しか製造されなかったペンのように。
もちろん、これは間違いである。単独性は属性に還元されないし、類と個の物語の中ではいかなる形でも正確に示すことはできない。
しかし「額面どおり」しか戦略を持たない者は、そもそもの始まりで単独的なアンカーを受け取れなかった者である。彼らの背負った苛烈な宿命は、「一般的なもので絶対一般化不可能なものを語る」という矛盾である。彼らが唯一のよりどころとする物語は、常に何らかの物語のトレースとしてしかあり得ない以上、「単独的」ではない。だから彼らは常に焦っている。「単独的」な何かを必死で紡ぎだそうとする。
そういうわけで、「額面どおり」の者たちは類と個を手管として使う。
これは失敗を約束された仕事ではあるが、すべて演繹的と言われるものがここに根を持つように、決してただパラノイアに還元できる方策ではない(翻せば、すべての演繹的思考は「パラノイア的」であり、しかも「帰納的」と考えられている思考も、どこかでこの偏執的エンジンがなければ最初の一歩を踏み出せない)。
ただし、単独的アンカーとして用いられるためには、どんな「類」でも良いわけではない。
この「類」は世界を二分するものでなければならない。つまり、二項的でなければならない。
なぜなら、類と個がその一致によりアンカーへと転用される時、他我的な「わたし」が属する類ではない類、つまり「それ以外」という分類が用いられるからだ。
類は並列的ではない。
「それ以外」というメタ的項目があって初めて、分類は成り立つ。「それ以外」は類のようでありながら類を越えて機能する。
Aという類の中には様々な個があり得るが、「それ以外」という類は、そもそも「様々な個」が最後に放り込まれる場所である以上、「それ以外」内部での差異は別の類内部での差異と同等ではなく、類同士の差異へとすり返られる危険を孕んでいる。
正にこのトリックが、アンカーのために用いられる。
例えば、<異性>とは<わたし>である。
少年マンガにおけるヒロインが、女であること自体を名のように用いさせられているように。
註1:あるものが、その属性と無関係に「それ」であること。あるペンの単独性とは、そのペンが特殊なペンであったり、そのペン独特の特徴を備えていることとは関係ない。極めて一般的なペンで、しかもそのペンを他のペンから峻別する指標がまったくなかったとしても、依然として「そのペン」は「そのペン」である。
註2:それとして名指せないような錨、逆説的にもそれは「名」として与えられる。名こそ単独的なものだが、錨として機能するような名は、発音できない名、具体的な名付けによって抹消させられた名、発音される名の基体となった名である。名は父から与えられるが、それは第一に、父とは名付けという形でピン止めする以外に実体を持たないものであること(父と名付けは一組)、第二に父こそが「唯一の男性」「<異性>としての男性」だからだ。もちろん、現実の父は「唯一の男性」などではなく、切り刻まれた平凡な男にすぎない。しかし父の父、極限において想定される父とは、「母でないもの」として粘土のような基体から切り出されたものであり、まだそれ以外に何も記しがなかった時に最初に現れた分節点という意味で、単独性そのものを示している。
2006年10月09日責任の範囲
「誰が思考しているのか」については思考しないことだ。
それは権限の範囲を越えている。
「誰が思考しているのか」は、思考の結果を受け取った(その思考を呼び出した)オブジェクトが思考することだ。
ところが、わたしたちには「誰が思考しているのか」を思考する再帰的能力が備わっていて、これが「健全」な精神生活を脅かす。
つまり、invokeさせられた段階で、わたしたちにはある値がセットされるわけだが、その値は個別性の識別子であるように見えながら、その個別性をインスタンス内部からしか参照できない、無意味な識別子なのだ。
だから、その識別子(とそれを活用するメソッド)については、存在だけを知っていれば良い。
要請があったときには、しかるべき手続きに則り思考し、それ以上思考しないことだ。
時間のかかる証明
ロジックに時間がなくても、ロジックのトレースには時間がかかる。
自然科学的な「帰納的」証明については言わずもがなだが、ここでは関係ない。
さて、ある証明には時間がかかる。
あるいは、かかる時間自体が証明となる。
証し立てなければならないのは、単独性の個別性からの峻別である。
<わたし>がまったく何でもない人間であったことを、未来における過去として、語れる場を作らなければならない。
それが唯一の平凡な任務であり、正にfadingしていくことがその軌跡となる。
わたしは消えいくことで証明される。