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2006年11月01日

森の奥で大木が倒れる音

 誰にも見られることのない作品は、意味のない作品だろうか。

 森の奥で大木が倒れる時、その音は存在するのだろうか。
 そんな問いを立てるのは懐疑論者だけだ。さらに言えば、懐疑論者も本当に疑っているわけではない。
 わたしたちは、一切の観察者を持たない大木の倒壊でも、やはり音はする、と考える。
 「ものが倒れる時の音」は、そのように振舞うものとして想定されているのだ。

 もちろん、常に「だがしかし」と問うことはできる。「本当に音があるのだろうか」と。
 しかし音の「存在」はこのような問いも織り込み済みだ。
 疑われれば疑われるほど、音は紛れもなく存在する。
 なぜなら、逆説的にも、本当のところ「音」は存在などではなく、懐疑論者の言う通り、関係性の上に成り立つ仮構でしかないからだ。
 それが仮構にすぎないからこそ、疑念に先回りして存在として振舞う。
 大文字の他者が存在しないからこそ、その抹消に先立って想定が不可欠となるように。

 誰にも見られることのない作品は、意味のない作品だろうか。
 言うまでもなく、二つの問いはパラレルではない。
 作品とは、鑑賞されるためのものとして規定されているからだ。
 誰にも見られることのない作品は、森の奥で大木が倒れる音より遥かに危うい。
 しかし危ういからこそ、より一層エロティックに特別な価値を持つ。

 その作品は、人の見るためのものであるはずがない。
 「少なくとも一人」の第三者、わたしとあなたを鏡地獄にしない絶対的保証人のための作品だ。
 そのような第三項は、もちろんそれ自体としては存在しない。
 繰り返すが、存在しないからこそ、より一層強く想定される。強い強い信念だけが、わたしとあなたの命綱だからだ。

 そのような危うい第三者のためだけの作品。
 この作品の意味も価値も、第三者だけにしか保障されない。
 そして彼は何も言わない。言わなくなってから何年にもなる。

 だからこそ、捧げものが尽きることはない。

 わたしが作品なのだ。

この記事のカテゴリはカカリツケ


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