男たち、女たち
<男たち>は存在しない
だから<男たち>の女になろうとしても無駄なことだ。
<男たち>が存在するのは、男たちにとってでしかない。
女たちは男たちが考えるほど<男たち>を信じていないし、信じているとしてもそれは<男たち>を作り出した<あの男>であり、その男が既にいないことも知っている。
<男たち>の女も、男たちだけのものだ。
だから<男たち>の女になろうとしても無駄なことだ。
<男たち>の女は、あまりにもあまりにも<女>で、それゆえ女にとっては存在しない。
むしろ圧倒的に<男>ですらある。
もちろん、普通、非常に男であるものは男ではないし、非常に女であるものは女ではない。
たぶん、母すらいない、そのような場所が、<男たち>の彼岸にある。
その場所にたどり着く一つのありふれた方法は、母になってしまう、ということでもあるのだが。
外国人性の表現、市場参加方法
どうしようもなく「外国人」であることを、いかに表現するか。
だが、わたしたちはいずれにせよ外国人なのであり、つまり「ニンゲン」になることによって十分に外国人であることができる。象徴的な市場参加法は、こうして外国人性をとりたててあからさまにすることがない。もちろん、彼・彼女らは自らが外国人であるとも考えない(しかし人間であるとは考える)。
あるいは、文字通り「外国」に住み、「外国人」になってしまうこと。これはわたしたちが「現実」と呼ぶ想像的な世界で「意味」の通るやり方である。つまり散文的で、想像的なアクティング・アウトだ。
散文的市場参加にはさまざまな例があり得るが、いずれも「人間」たちの目から見て理解できる(「なるほど」と膝を叩ける)形を取る(「有名人」になっても良い)。
最後に、韻文的な方法がある。
語り語られる存在であること自体に「外国人性」を表現できず、かついかなる形でも「意味」に訴えることができなかったものである。
彼・彼女たちの取る方法は「人間」たちの合理的理解を超えるが、確かに紛れもなく「外国人」であるような、現実的切断を示す。
この例にも様々なヴァリアントがある得るが、アクティング・アウトと異なり「列挙」することができない。
現実的去勢
わたしはわたしでないから、わたしはわたしなのだ、ということを、一つの不可能の実現により証明すること。
2007年01月15日音楽
睡眠。
それだけが重要であることの証明。
2007年01月12日意味
催眠術。
忘れてはならない、目的はいつも睡眠なのだ。
2007年01月02日憎悪の仲裁
たった一つ、美しいものと安心できる場所があるだけで、醜悪な世界全体を許すことができる。
これは極めて幼児的な幻想だが、そのような一方的偏見と一方的かつ利己的寛容が、非常に多くの争いを仲裁できるのも事実だ。