なぜ何かを隠さなければならなかったのか
隠されたものが何もなかったから。
何かを隠さなければ人間にはなれない。
だから、隠せるものなら何でもよかったのかもしれない。
でも本当に?
まだ十分ではない。
隠すものとして<それ>が選ばれたことには、(アイデンティティなどという戯言は論外にしても)「心理的」ではない、何か別の理由があったはずだ。
その理由が、どうしても思い出せない。
だから本当に隠されたのは、<それ>ではなく、<それ>が選ばれた理由である、とも言える。
<移行>の本質、隠れる
もうはっきり言ってしまうことができる。
<移行>の本質は、何かを「隠した」あるいは「隠れた」ということだ。
ただ、本当のことを言うのは気がひける。というのも、「隠した」と言うと、隠れたものこそ本質だ、と取られかねないからだ。
つまり<本当>は背後に隠れ、目に見えるものは<見せかけ>だ、と短絡的に理解されてしまうのだ。
もちろん、事態はそれほど簡単でも想像的でもない。
しかし、「隠した」あるいは「隠れた」当人すら、そのほとんどが<本当><見せかけ>という型に振り回されている状況では、深く美しい理解と探求など期待できるわけもない。
「隠れた」にせよ、重要なのは隠れた「何か」ではない。
何であれ、何かが確実に隠されていることが本質なのだ。
つまり、「『本当は』ある」ものたちのうち、あるものは「ある」という形であり、あるものは「ない」という形である、ということだ。「ない」という形である、ということが「隠れる」ことである。
そして一つのものが同時に「ある」という形でと「ない」という形であることはできない。
逆に言えば、隠れていようと隠れていまいと、それらはある。
真理は部分的だが、なくなってしまったわけではない。
何かが「隠れる」とは、真理を保証することだ。
常に部分的にしか顕かにならないことにより保証される真理。
誰かがこの真理のために隠れた。
もちろん、なぜこの者たちだけが隠れなければならなかったのか、という疑問は残る。
この問いが開かれている限りにおいて、誰であれ誰かが隠れたことが、真理を保証する。
「ない」すらない
ところで、「ない」があるか、あるいは「ある」があるか、いずれにせよ何かがある、とするなら、「ない」すらない、とはどういうことか。
それは端的にない、というのが象徴経済であり、その外部を語ることはできないが、にも関わらずやはり「ない」すらない、は<どこか>にある。
つまり<それ>を持っていないがゆえに「ない」を所有している、というありようではなく、「ない」すらない、というような者である。
実は、<それ>を持つ者、「ある」がある者、彼らにはこの者たちが見えない。
彼らの住む世界には、そのようなものは端的に「いない」のだ。
一方、彼女たちが見える者もいる。
この者たちには、彼女たちが見えないという状態がよくわからない。ただ彼らには見えていない、ということを「知っている」。
この「ない」すらない者、彼女たちは<女>ではないが、それゆえにこそ、最も女である。
女とは言えないほどに、女なのだ。
飛び立った者たちの言葉
言うまでもなく、閉じた象徴経済に「ないものはない」。
なぜなら、それは「ない」を「ある」と分節するための仕組みだからだ(Fort/Da)。
だから、そこでは「ない」者が「ある」者を羨むと同時に、「ある」を所有する者が「ない」を所有する者を羨望する。
「ない」と「ある」を同時に所有することはできない。
「ある」者を羨む「ない」者は、「ない」を所有するという権力を持つ。
「ない」の所有は、象徴界固有の権力であるがゆえ、象徴経済に深く根ざした者からこそ羨望される。
「ない」を所有する者たちは、<それ>を文字通り持っていない、という意味で、(物質的=想像的)世界と一致しているかのように見られる(「母なる大地」..)。
つまり、象徴的権力を持つ者がその彼岸に立っている、という逆説がある。
一方「ある」者、つまり「ない」を所有する者から<それ>を文字通り持っている、として羨望される者は、「ある」が「ある」という意味で、「言動一致」しているように見られる。
羨望する彼女たちには、自分たちが持っていると想定される象徴的権力が見通せない。なぜなら、その権力は「言動一致」の世界でだけ有効となる力だからだ。
むしろ「『ある』がある」者こそ、本当の力を持っている、と考える。
「『ある』がある」を評価する世界に住む者は、「ない」が「ある」と等価である世界に入りきることはできない。
ところで、「ある」の所有から「ない」の所有へと<移行>した者はどうだろうか。
この者たちはもちろん、<それ>を手放すという意味で何かを失うわけだが、一方、そのような<移行>がある種の権力を求めて行われてきたのは、歴史の証すところである。
至高の権力を認識できる者が、その権力に向かって飛翔する。
しかしもちろん、着地した場所にそれはない。
ただ、「あの者たちはその土地に向かって飛び立った」という語らいだけが残る。
飛び立った者たちの言葉は故郷には届かない。
そして異郷の言葉が母語に等しくなることもない。