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2007年03月24日

なぜ何かを隠さなければならなかったのか

 隠されたものが何もなかったから。

 何かを隠さなければ人間にはなれない。
 だから、隠せるものなら何でもよかったのかもしれない。

 でも本当に?
 まだ十分ではない。
 隠すものとして<それ>が選ばれたことには、(アイデンティティなどという戯言は論外にしても)「心理的」ではない、何か別の理由があったはずだ。
 その理由が、どうしても思い出せない。
 だから本当に隠されたのは、<それ>ではなく、<それ>が選ばれた理由である、とも言える。

2007年03月03日

<移行>の本質、隠れる

 もうはっきり言ってしまうことができる。
 <移行>の本質は、何かを「隠した」あるいは「隠れた」ということだ。
 ただ、本当のことを言うのは気がひける。というのも、「隠した」と言うと、隠れたものこそ本質だ、と取られかねないからだ。
 つまり<本当>は背後に隠れ、目に見えるものは<見せかけ>だ、と短絡的に理解されてしまうのだ。
 もちろん、事態はそれほど簡単でも想像的でもない。
 しかし、「隠した」あるいは「隠れた」当人すら、そのほとんどが<本当><見せかけ>という型に振り回されている状況では、深く美しい理解と探求など期待できるわけもない。

 「隠れた」にせよ、重要なのは隠れた「何か」ではない。
 何であれ、何かが確実に隠されていることが本質なのだ。
 つまり、「『本当は』ある」ものたちのうち、あるものは「ある」という形であり、あるものは「ない」という形である、ということだ。「ない」という形である、ということが「隠れる」ことである。
 そして一つのものが同時に「ある」という形でと「ない」という形であることはできない。
 逆に言えば、隠れていようと隠れていまいと、それらはある。
 真理は部分的だが、なくなってしまったわけではない。
 何かが「隠れる」とは、真理を保証することだ。

 常に部分的にしか顕かにならないことにより保証される真理。
 誰かがこの真理のために隠れた。
 もちろん、なぜこの者たちだけが隠れなければならなかったのか、という疑問は残る。
 この問いが開かれている限りにおいて、誰であれ誰かが隠れたことが、真理を保証する。

2007年03月02日

「ない」すらない

 ところで、「ない」があるか、あるいは「ある」があるか、いずれにせよ何かがある、とするなら、「ない」すらない、とはどういうことか。
 それは端的にない、というのが象徴経済であり、その外部を語ることはできないが、にも関わらずやはり「ない」すらない、は<どこか>にある。
 つまり<それ>を持っていないがゆえに「ない」を所有している、というありようではなく、「ない」すらない、というような者である。
 実は、<それ>を持つ者、「ある」がある者、彼らにはこの者たちが見えない。
 彼らの住む世界には、そのようなものは端的に「いない」のだ。
 一方、彼女たちが見える者もいる。
 この者たちには、彼女たちが見えないという状態がよくわからない。ただ彼らには見えていない、ということを「知っている」。

 この「ない」すらない者、彼女たちは<女>ではないが、それゆえにこそ、最も女である。
 女とは言えないほどに、女なのだ。

2007年03月02日

飛び立った者たちの言葉

 言うまでもなく、閉じた象徴経済に「ないものはない」。
 なぜなら、それは「ない」を「ある」と分節するための仕組みだからだ(Fort/Da)。
 だから、そこでは「ない」者が「ある」者を羨むと同時に、「ある」を所有する者が「ない」を所有する者を羨望する。
 「ない」と「ある」を同時に所有することはできない。

 「ある」者を羨む「ない」者は、「ない」を所有するという権力を持つ。
 「ない」の所有は、象徴界固有の権力であるがゆえ、象徴経済に深く根ざした者からこそ羨望される。
 「ない」を所有する者たちは、<それ>を文字通り持っていない、という意味で、(物質的=想像的)世界と一致しているかのように見られる(「母なる大地」..)。
 つまり、象徴的権力を持つ者がその彼岸に立っている、という逆説がある。

 一方「ある」者、つまり「ない」を所有する者から<それ>を文字通り持っている、として羨望される者は、「ある」が「ある」という意味で、「言動一致」しているように見られる。
 羨望する彼女たちには、自分たちが持っていると想定される象徴的権力が見通せない。なぜなら、その権力は「言動一致」の世界でだけ有効となる力だからだ。
 むしろ「『ある』がある」者こそ、本当の力を持っている、と考える。
 「『ある』がある」を評価する世界に住む者は、「ない」が「ある」と等価である世界に入りきることはできない。

 ところで、「ある」の所有から「ない」の所有へと<移行>した者はどうだろうか。
 この者たちはもちろん、<それ>を手放すという意味で何かを失うわけだが、一方、そのような<移行>がある種の権力を求めて行われてきたのは、歴史の証すところである。
 至高の権力を認識できる者が、その権力に向かって飛翔する。
 しかしもちろん、着地した場所にそれはない。
 ただ、「あの者たちはその土地に向かって飛び立った」という語らいだけが残る。

 飛び立った者たちの言葉は故郷には届かない。
 そして異郷の言葉が母語に等しくなることもない。



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