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2007年03月02日

飛び立った者たちの言葉

 言うまでもなく、閉じた象徴経済に「ないものはない」。
 なぜなら、それは「ない」を「ある」と分節するための仕組みだからだ(Fort/Da)。
 だから、そこでは「ない」者が「ある」者を羨むと同時に、「ある」を所有する者が「ない」を所有する者を羨望する。
 「ない」と「ある」を同時に所有することはできない。

 「ある」者を羨む「ない」者は、「ない」を所有するという権力を持つ。
 「ない」の所有は、象徴界固有の権力であるがゆえ、象徴経済に深く根ざした者からこそ羨望される。
 「ない」を所有する者たちは、<それ>を文字通り持っていない、という意味で、(物質的=想像的)世界と一致しているかのように見られる(「母なる大地」..)。
 つまり、象徴的権力を持つ者がその彼岸に立っている、という逆説がある。

 一方「ある」者、つまり「ない」を所有する者から<それ>を文字通り持っている、として羨望される者は、「ある」が「ある」という意味で、「言動一致」しているように見られる。
 羨望する彼女たちには、自分たちが持っていると想定される象徴的権力が見通せない。なぜなら、その権力は「言動一致」の世界でだけ有効となる力だからだ。
 むしろ「『ある』がある」者こそ、本当の力を持っている、と考える。
 「『ある』がある」を評価する世界に住む者は、「ない」が「ある」と等価である世界に入りきることはできない。

 ところで、「ある」の所有から「ない」の所有へと<移行>した者はどうだろうか。
 この者たちはもちろん、<それ>を手放すという意味で何かを失うわけだが、一方、そのような<移行>がある種の権力を求めて行われてきたのは、歴史の証すところである。
 至高の権力を認識できる者が、その権力に向かって飛翔する。
 しかしもちろん、着地した場所にそれはない。
 ただ、「あの者たちはその土地に向かって飛び立った」という語らいだけが残る。

 飛び立った者たちの言葉は故郷には届かない。
 そして異郷の言葉が母語に等しくなることもない。

この記事のカテゴリはカカリツケ


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