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2007年05月22日

自分で自分を牢屋に入れる

 自分で自分を牢屋に入れたのは、もちろん自由になるためだ。
 贖罪の名の元に、吝嗇な計算により。
 しかし本当に?

 問題は、このわたしは牢屋に入れたわたしなのか、入れられたわたしなのか、だ。
 「罪を贖った者」は、誰かを牢屋に入れて「自由」を得る。あるいは危険な男または女を閉じ込めることで「解放」される。
 しかし一方で、誰かが残されている。むしろ残った者こそわたしなのではないか。

 だから、これは「解放」でも「自由」でもない。まして「贖罪」などではない。
 どちらかがわたしなのではなく、囚われとなったわたしと、走り去ったわたしが離れ離れになったとき、わたしという宙吊りなものが初めて生まれたのだ。
 こうして、わたしにはどうしても会わなければならない人ができた。
 安心して死を恐れることができるのは、その効果である。

 そして「解放」ではない、free fromではないもう一つの自由の可能性が、ここにだけある。

この記事のカテゴリはカカリツケ


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