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男と女、愚者と狂人

 男とは狂人のことであり、女とは愚者のことである。
 狂人でも愚者でもない者は存在しない。
 ただし、ほとんどの男はそれほど男ではないので、大したキチガイではない。
 ほとんどの女もそれほど女ではないので、大したバカではない。

 稀に、キチガイが極まってバカになることがある。
 さらに数が少ないが、バカが極まってキチガイになることもある。

2007年09月08日

恥辱と罪・物質

 罪の<他者>は裁くが、恥じらいの<他者>は傍観する。
 明滅としての主体以前のものが、存在を恥らう。
 しかしこの存在は、断罪の残余というよりはむしろ、猥雑に剥き出しにされてしまった肉だ。
 法を知るものたちが、法以前として想像する肉。
 それゆえ、法を知るものたちにとって、肉としての恥じらいは、去勢の否認、あるいはむしろ去勢可能性の隠蔽として機能する。フェティッシュとは、この「存在」を仮託された想像的な肉だ。

 恥となることは物質になることだが、法を知るものたちがそこに見て取れるのは、せいぜいが肉である。
 あるいは、彼らがお遊戯「プレイ」で味わう恥辱とは、肉という虚像にすぎない。

 わたしたちの継承した罪は、ただ利子だけを支払い再び負債として明け渡すことだけが求められるが、負債の全済を目論む狂気は、この罪を特段の罪として引き受ける。
 負債を全済するものは、罪を物質へ、恥へと換えなければならない。
 そしてこの恥は、行き過ぎる。
 肉に見えたもの、それが所詮は法を知るものたちのスクリーンにすぎないことを、この者はすぐに発見してしまう。正確には、そこを通り過ぎてから気付く。
 フェティッシュとしての恥じらいとは、罪の領野にいるものたちにしか目に入らないものなのだ。
 生まれながらにして「恥」であるものたちは、恥じらいを知らない。彼女たちほど穢れた「恥知らず」はない。

 罪の次元から始めて、罪を恥としたものは、肉を通り過ぎ物質となる。
 しかしより重要なのは、物質となったものの背後で、依然存在しない何かが思考し続けている、ということだ。
 恥とは、裁く<他者>を持たない物質だ。裁く力もないもの、世界の中へと手を伸ばす術をすべて奪われたものとして、物質を眺めているものがいる。それがcogitoであり、クローゼットの視姦者だ。目が眼差しを覆い隠すように、罪人はクローゼットに隠れた。
 罪を恥としたものは、物質として肉を超えると同時に、クローゼットから世界を覗き見る。
 否認すべき去勢すら知らなかったがゆえに、もっと遠くまで来ることができたのだ。

 多分、少し遠すぎて、わたしの声は彼女には届かないし、恥じらいのあまり息をすることもできない。
 クローゼットの中であれ、外であれ。一人であることに変わりはない。

2007年07月06日

 恥じらいではなく、むしろ恥となってしまうこと。
 物質になるとは、許されない赤裸々なものが世界に残り、恥そのものとなった思考が世界の背後へと消失することだ。
 言うまでもなく、それを人々がスティグマとするか否かなどは問題ではない。
 そして重要なことに、これは劣等感といった「心理的」現象にも還元されない。スティグマとは、恥の想像的誤読にすぎない。

 恥となることは、自らを牢獄に閉じ込めることだ。
 それは永遠に牢獄の外に締め出されてしまうことでもある。
 なぜなら、牢獄の中には醜い肉塊だけが残り、恥そのものとなった思考は世界に留まることも許されないからだ。

2007年07月03日

分業

 分業というファンタジーが、核心の一つのはずだ。
 思考しないために存在してみたら、存在の背後で存在しないものが思考していた。

2007年06月28日

真理への愛とホメオスタシス

 真理への愛とは、畢竟死への執着である。
 モノの領域、交換されざる経済の「変わらぬ」外部。
 だから、真理への愛は秩序への執心とは異なる。死は法ではない。
 しかし外部自体を名指すことができない以上、この愛は淵=周縁を巡るより他にない。
 真理への愛が法則性の発見や秩序の追及といった同一性へと堕すのは、この地点である。
 それでも、ホメオスタシスの執拗さに抗い、この場所まで来たことには間違いない。
 ホメオスタシスは真理に抵抗する。

 愛を全体性という幻想(社会=個人の実在、閉じた法則・・・)への堕落から救うには、死の無定形性自体を愛の表現に織り込むより他にない。これはホメオスタシスを欺く方法である。
 だからといって、ただ法の内部に「ゴミ箱」「その他」を設け、そこへ不可能性を放り込むのでは、幻想に対する敗北である。
 むしろ既に愛が達成されてしまっていること、期せずして語られてしまっている真理を振り返らなければならない。
 真理への愛は、隠喩的流動の固定点として象徴的法に帰せられるのではない。
 固定的でない領域において、不本意にも垂れ流されている真理を、名のもとに語って憚らない、この態度だけが愛を表現する。

2007年06月23日

自分で自分を牢屋に入れる

 自分で自分を牢屋に入れたのは、もちろん自由になるためだ。
 贖罪の名の元に、吝嗇な計算により。
 しかし本当に?

 問題は、このわたしは牢屋に入れたわたしなのか、入れられたわたしなのか、だ。
 「罪を贖った者」は、誰かを牢屋に入れて「自由」を得る。あるいは危険な男または女を閉じ込めることで「解放」される。
 しかし一方で、誰かが残されている。むしろ残った者こそわたしなのではないか。

 だから、これは「解放」でも「自由」でもない。まして「贖罪」などではない。
 どちらかがわたしなのではなく、囚われとなったわたしと、走り去ったわたしが離れ離れになったとき、わたしという宙吊りなものが初めて生まれたのだ。
 こうして、わたしにはどうしても会わなければならない人ができた。
 安心して死を恐れることができるのは、その効果である。

 そして「解放」ではない、free fromではないもう一つの自由の可能性が、ここにだけある。

2007年05月22日

人体切断の記憶

 分断してみるとどちらが<わたし>になるのかと思ったら、やはり「こちら」が<わたし>になった。
 <わたし>とは「こちら」に残るもののことだ。
 何か残ったもの、それが<わたし>だ。だから<わたし>が在るためには、残らなかったもの、失われたものが必要になる。決定的な何か、「本当は一番重要だったはず」の何か、それが失われなければならない。

 人体切断の記憶を失った者を「人間」という。地上に存在する値打ちのない醜悪な者のことだ。

2007年04月28日

眠りたくない欲望、絶対に眠らない方法

 眠りたいのに、それを別の欲求とすり替えているのではない。
 眠りを巡る欲望は、眠りたくない欲望だ。
 しかしこれは、単に欲求を宙吊りにし余白へと欲望をフックしているのではない。
 それは、食べないこととは異なる。食べたり食べなかったりするのは、眠らないため、あるいは眠りたくない欲望を保存し抑圧するためだ。

 眠らないために貪る。
 セックスしないために貪る。

 これはホメオスタシスの抵抗だが、人工衛星も必ず大気圏に再突入する。
 しかし、この関係を理解しようとするなら、抵抗が敗れる「現実」という想像的なものにとらわれるのではなく、むしろそれこそが眠らないための夢であることを疑ってかかる必要がある。


 「実は、絶対に眠らない方法というのがある。夢で閃いたのだが、どうしても思い出せない」。

2007年04月07日

外国人、死者、<移行>

 「死者とは何か」という問いに対する、最も隠喩的回答。

2007年04月06日

答えを手にしてから問いを立てる死者

 外国人と言っているのは、実は死人のことだ。
 わたしたちは「棺桶に片足を突っ込む」ことによりニンゲンになる。
 このとき死者の登記簿に名を連ねることにより、多くの者が死と「本当の死」の間で巧みに宙吊りにされる。つまり、死んでいることに気付かない死者、外国人であることに気付かない外国人になる。
 呼びかけに振り向いてしまうことにより実は死んでいる、このことを隠し切れなかった者たちは、いくつかの特別な方法を取る。
 「外国で『外国人』になる」アクティングアウトについては前にも触れた。
 もちろん、「本当に」死んでしまうこともできる。これらは散文的な方法だ。
 一方で、「紛れもなく死者」ではあるものの、意味の領野では解釈できない「死に方」を表現する者もいる。
 そう、ここまではよい。
 気になっているのは、これがいかにして<移行>と紐付けられるのか、だ。
 もちろん、ここに「意味」はない。
 しかし気まぐれでもない。
 この隘路は間違いなく予め決められていたものではあるが、一方で世界の中にこの道を示す道標はない。
 だから問わないではいられない。なぜこの道がかくも絶対的なのか、と。

 この道を選んだ者の多くが、問わないまま答えだけを手にしたが、答えを手にしてから問いを立ててしまう者もいる。
 少なくとも、ここに一人。

2007年04月03日

<移行>の本質、隠れる

 もうはっきり言ってしまうことができる。
 <移行>の本質は、何かを「隠した」あるいは「隠れた」ということだ。
 ただ、本当のことを言うのは気がひける。というのも、「隠した」と言うと、隠れたものこそ本質だ、と取られかねないからだ。
 つまり<本当>は背後に隠れ、目に見えるものは<見せかけ>だ、と短絡的に理解されてしまうのだ。
 もちろん、事態はそれほど簡単でも想像的でもない。
 しかし、「隠した」あるいは「隠れた」当人すら、そのほとんどが<本当><見せかけ>という型に振り回されている状況では、深く美しい理解と探求など期待できるわけもない。

 「隠れた」にせよ、重要なのは隠れた「何か」ではない。
 何であれ、何かが確実に隠されていることが本質なのだ。
 つまり、「『本当は』ある」ものたちのうち、あるものは「ある」という形であり、あるものは「ない」という形である、ということだ。「ない」という形である、ということが「隠れる」ことである。
 そして一つのものが同時に「ある」という形でと「ない」という形であることはできない。
 逆に言えば、隠れていようと隠れていまいと、それらはある。
 真理は部分的だが、なくなってしまったわけではない。
 何かが「隠れる」とは、真理を保証することだ。

 常に部分的にしか顕かにならないことにより保証される真理。
 誰かがこの真理のために隠れた。
 もちろん、なぜこの者たちだけが隠れなければならなかったのか、という疑問は残る。
 この問いが開かれている限りにおいて、誰であれ誰かが隠れたことが、真理を保証する。

2007年03月03日

「ない」すらない

 ところで、「ない」があるか、あるいは「ある」があるか、いずれにせよ何かがある、とするなら、「ない」すらない、とはどういうことか。
 それは端的にない、というのが象徴経済であり、その外部を語ることはできないが、にも関わらずやはり「ない」すらない、は<どこか>にある。
 つまり<それ>を持っていないがゆえに「ない」を所有している、というありようではなく、「ない」すらない、というような者である。
 実は、<それ>を持つ者、「ある」がある者、彼らにはこの者たちが見えない。
 彼らの住む世界には、そのようなものは端的に「いない」のだ。
 一方、彼女たちが見える者もいる。
 この者たちには、彼女たちが見えないという状態がよくわからない。ただ彼らには見えていない、ということを「知っている」。

 この「ない」すらない者、彼女たちは<女>ではないが、それゆえにこそ、最も女である。
 女とは言えないほどに、女なのだ。

2007年03月02日

飛び立った者たちの言葉

 言うまでもなく、閉じた象徴経済に「ないものはない」。
 なぜなら、それは「ない」を「ある」と分節するための仕組みだからだ(Fort/Da)。
 だから、そこでは「ない」者が「ある」者を羨むと同時に、「ある」を所有する者が「ない」を所有する者を羨望する。
 「ない」と「ある」を同時に所有することはできない。

 「ある」者を羨む「ない」者は、「ない」を所有するという権力を持つ。
 「ない」の所有は、象徴界固有の権力であるがゆえ、象徴経済に深く根ざした者からこそ羨望される。
 「ない」を所有する者たちは、<それ>を文字通り持っていない、という意味で、(物質的=想像的)世界と一致しているかのように見られる(「母なる大地」..)。
 つまり、象徴的権力を持つ者がその彼岸に立っている、という逆説がある。

 一方「ある」者、つまり「ない」を所有する者から<それ>を文字通り持っている、として羨望される者は、「ある」が「ある」という意味で、「言動一致」しているように見られる。
 羨望する彼女たちには、自分たちが持っていると想定される象徴的権力が見通せない。なぜなら、その権力は「言動一致」の世界でだけ有効となる力だからだ。
 むしろ「『ある』がある」者こそ、本当の力を持っている、と考える。
 「『ある』がある」を評価する世界に住む者は、「ない」が「ある」と等価である世界に入りきることはできない。

 ところで、「ある」の所有から「ない」の所有へと<移行>した者はどうだろうか。
 この者たちはもちろん、<それ>を手放すという意味で何かを失うわけだが、一方、そのような<移行>がある種の権力を求めて行われてきたのは、歴史の証すところである。
 至高の権力を認識できる者が、その権力に向かって飛翔する。
 しかしもちろん、着地した場所にそれはない。
 ただ、「あの者たちはその土地に向かって飛び立った」という語らいだけが残る。

 飛び立った者たちの言葉は故郷には届かない。
 そして異郷の言葉が母語に等しくなることもない。

2007年03月02日

男たち、女たち

 <男たち>は存在しない
 だから<男たち>の女になろうとしても無駄なことだ。

 <男たち>が存在するのは、男たちにとってでしかない。
 女たちは男たちが考えるほど<男たち>を信じていないし、信じているとしてもそれは<男たち>を作り出した<あの男>であり、その男が既にいないことも知っている。
 <男たち>の女も、男たちだけのものだ。
 だから<男たち>の女になろうとしても無駄なことだ。

 <男たち>の女は、あまりにもあまりにも<女>で、それゆえ女にとっては存在しない。
 むしろ圧倒的に<男>ですらある。
 もちろん、普通、非常に男であるものは男ではないし、非常に女であるものは女ではない。

 たぶん、母すらいない、そのような場所が、<男たち>の彼岸にある。
 その場所にたどり着く一つのありふれた方法は、母になってしまう、ということでもあるのだが。

2007年01月25日

外国人性の表現、市場参加方法

 どうしようもなく「外国人」であることを、いかに表現するか。

 だが、わたしたちはいずれにせよ外国人なのであり、つまり「ニンゲン」になることによって十分に外国人であることができる。象徴的な市場参加法は、こうして外国人性をとりたててあからさまにすることがない。もちろん、彼・彼女らは自らが外国人であるとも考えない(しかし人間であるとは考える)。

 あるいは、文字通り「外国」に住み、「外国人」になってしまうこと。これはわたしたちが「現実」と呼ぶ想像的な世界で「意味」の通るやり方である。つまり散文的で、想像的なアクティング・アウトだ。
 散文的市場参加にはさまざまな例があり得るが、いずれも「人間」たちの目から見て理解できる(「なるほど」と膝を叩ける)形を取る(「有名人」になっても良い)。

 最後に、韻文的な方法がある。
 語り語られる存在であること自体に「外国人性」を表現できず、かついかなる形でも「意味」に訴えることができなかったものである。
 彼・彼女たちの取る方法は「人間」たちの合理的理解を超えるが、確かに紛れもなく「外国人」であるような、現実的切断を示す。
 この例にも様々なヴァリアントがある得るが、アクティング・アウトと異なり「列挙」することができない。

2007年01月21日

現実的去勢

 わたしはわたしでないから、わたしはわたしなのだ、ということを、一つの不可能の実現により証明すること。

2007年01月20日

美を売り渡さない生

 生存(快感原則、ホメオスタシス・・)が美を損なっていくなら、美によって生きる道もある。
 しかしそれは、美を切り売りして生きることではない。
 逆説的にも、美を売り渡さないことが、それを糧として生かす唯一の方法である。
 なぜなら、そこで実現されるのもまた、限界付けられた生という逆説そのものだからだ。

 二種類の生があるわけではない。
 さまざまな場所で語るもの、蠢き、これらの間を症候が渡り歩く。

2006年11月18日

森の奥で大木が倒れる音

 誰にも見られることのない作品は、意味のない作品だろうか。

 森の奥で大木が倒れる時、その音は存在するのだろうか。
 そんな問いを立てるのは懐疑論者だけだ。さらに言えば、懐疑論者も本当に疑っているわけではない。
 わたしたちは、一切の観察者を持たない大木の倒壊でも、やはり音はする、と考える。
 「ものが倒れる時の音」は、そのように振舞うものとして想定されているのだ。

 もちろん、常に「だがしかし」と問うことはできる。「本当に音があるのだろうか」と。
 しかし音の「存在」はこのような問いも織り込み済みだ。
 疑われれば疑われるほど、音は紛れもなく存在する。
 なぜなら、逆説的にも、本当のところ「音」は存在などではなく、懐疑論者の言う通り、関係性の上に成り立つ仮構でしかないからだ。
 それが仮構にすぎないからこそ、疑念に先回りして存在として振舞う。
 大文字の他者が存在しないからこそ、その抹消に先立って想定が不可欠となるように。

 誰にも見られることのない作品は、意味のない作品だろうか。
 言うまでもなく、二つの問いはパラレルではない。
 作品とは、鑑賞されるためのものとして規定されているからだ。
 誰にも見られることのない作品は、森の奥で大木が倒れる音より遥かに危うい。
 しかし危ういからこそ、より一層エロティックに特別な価値を持つ。

 その作品は、人の見るためのものであるはずがない。
 「少なくとも一人」の第三者、わたしとあなたを鏡地獄にしない絶対的保証人のための作品だ。
 そのような第三項は、もちろんそれ自体としては存在しない。
 繰り返すが、存在しないからこそ、より一層強く想定される。強い強い信念だけが、わたしとあなたの命綱だからだ。

 そのような危うい第三者のためだけの作品。
 この作品の意味も価値も、第三者だけにしか保障されない。
 そして彼は何も言わない。言わなくなってから何年にもなる。

 だからこそ、捧げものが尽きることはない。

 わたしが作品なのだ。

2006年11月01日

問いのないところに答えを出す

 答えのないところに問いを立ててしまう者がいる一方、問いのないところに答えを示す者がいる。
 時にこれらの症候が響き合い、「ゴールイン」が実現されるが、それは両者が相補的関係にあるからではない。
 完全ではない二種類の者がいるわけではない。
 「完全ではない二種類の者」を見ることができると想定される一者がいる。
 もちろん、そのような一者がそれ自体で存在しているわけではないが、あらゆる種類の「不完全さ」があらゆる種類の「もう一方」を遡行的に想定させ、一者を必然に見せかける。

2006年10月30日

これ以上死なない

 少なくない者たちが、「これ以上死なない」ために死を選ぶ。
 しかし、それよりもずっと多い者たちが、死なないでも「これ以上死なない」でいられる。
 彼らが死なないでも「これ以上死なない」のは、既に十分に死んでいるからだ。
 「これ以上死なない」程度に死んでいて、なおかつ死に至らない閾がある。
 ただ、その閾に既に達していることを忘れないでいることが、時々難しい。

2006年10月28日

騙せてしまう

 致命的なのは、嘘や演技を見抜かれることではない。
 最後の一人までもが見事に騙されてしまうことだ。
 「暗黙のメッセージ」が誰にも受け取られることなく、「真意」を解釈してくれる者が一人も残らないことだ。

 絶対的な第三者が不在であるなら、人は自分の演技に責任を持たなければならない。
 この演技とは、気がついたときには背負わされていた債務のことである。
 それゆえ、「演技しない」という選択肢は実体を持たない。
 演技する主体に、演技が先立っているからだ。

 しかし、事態が単純でないことには、例えわたしたちが演技せずに「真意」を言明することができたとしても、それが「真意」であることを保証するものが何もない、ということだ。
 つまり、いずれにせよ「真意」は受け取られない。

 <わたし>が誰も騙していなくても、必ず人は騙される。

 問題は振り出しに戻る。
 たとえ最後の一人までもが騙されることがわかっていたとしても、わたしたちは最後の一人を信じなければならない。
 そうでなければ、わたしたちは嘘をつくことすらできない。

 背負わされた債務は、その総額すらわからず、返せる当てもないが、返せると信じなければ、債務を背負うことすらできない。

2006年10月19日

物真似しかできない者たちの錨

 独我論的意味での<わたし>が個物の単独性(paticularであること)に還元できるか否かはひとまずおいて。
 少なくとも、個別性ではない単独性(註1)が思考される場と、独我論的思考が涵養される環境は近親的で、その空間においては単独性の「証明」こそが死命を分かつと感じられる。去勢が抑圧されるのではなく排除された場合、語る者をピン止めしている暗黙のコンテキストは「モノマネ」的にしか導入されず、常に「崩壊寸前」だからだ。精神病親和的人格が「大きな物語」を求めるのは、「これ」をピン止めするための生地を改めて読み直そうとする試みである、とも言える。
 「大きな物語」に親しい者たちは、「文字通り」「額面どおり」に解釈してしまう。
 暗黙のコンテキストをうまく読み込めた者たちは、すべての言葉が移ろい行き言語経済の中にfadeしたとしても、一切の支えを失って漂流してしまわない繋留点を確保している。もちろん、この錨はそれとして名指せるものではない(註2)。誰も自分が繋留されているポイントを示すことはできないし、繋留されていると認識することもない(繋留点を大きな声で喧伝する者は、むしろ錨を持たないために「大きな物語」を必要とするパラノイアだ)。また錨の先はただの柔らかいヘドロかもしれない。ただ、彼らは言葉が流れてしまうことに焦ることはない。「失敗した」人々にとって、これは致命的である。なぜなら、彼らにとって物語だけが最後の砦だからだ。だから物語はなんとしても「額面どおり」でないと困る。
 そこで彼らは、単独性の証明にも物語の力を使おうとする。
 例えば、類と個というフレームワーク。これは物語であり、ツールにすぎないが、「額面どおり」の人びとにとっては世界のすべてである。
 類と個の範囲が一致するものがあるとしたら、それは単独的であるように見える。一本しか製造されなかったペンのように。
 もちろん、これは間違いである。単独性は属性に還元されないし、類と個の物語の中ではいかなる形でも正確に示すことはできない。
 しかし「額面どおり」しか戦略を持たない者は、そもそもの始まりで単独的なアンカーを受け取れなかった者である。彼らの背負った苛烈な宿命は、「一般的なもので絶対一般化不可能なものを語る」という矛盾である。彼らが唯一のよりどころとする物語は、常に何らかの物語のトレースとしてしかあり得ない以上、「単独的」ではない。だから彼らは常に焦っている。「単独的」な何かを必死で紡ぎだそうとする。

 そういうわけで、「額面どおり」の者たちは類と個を手管として使う。
 これは失敗を約束された仕事ではあるが、すべて演繹的と言われるものがここに根を持つように、決してただパラノイアに還元できる方策ではない(翻せば、すべての演繹的思考は「パラノイア的」であり、しかも「帰納的」と考えられている思考も、どこかでこの偏執的エンジンがなければ最初の一歩を踏み出せない)。
 ただし、単独的アンカーとして用いられるためには、どんな「類」でも良いわけではない。
 この「類」は世界を二分するものでなければならない。つまり、二項的でなければならない。
 なぜなら、類と個がその一致によりアンカーへと転用される時、他我的な「わたし」が属する類ではない類、つまり「それ以外」という分類が用いられるからだ。
 類は並列的ではない。
 「それ以外」というメタ的項目があって初めて、分類は成り立つ。「それ以外」は類のようでありながら類を越えて機能する。
 Aという類の中には様々な個があり得るが、「それ以外」という類は、そもそも「様々な個」が最後に放り込まれる場所である以上、「それ以外」内部での差異は別の類内部での差異と同等ではなく、類同士の差異へとすり返られる危険を孕んでいる。
 正にこのトリックが、アンカーのために用いられる。

 例えば、<異性>とは<わたし>である
 少年マンガにおけるヒロインが、女であること自体を名のように用いさせられているように。


註1:あるものが、その属性と無関係に「それ」であること。あるペンの単独性とは、そのペンが特殊なペンであったり、そのペン独特の特徴を備えていることとは関係ない。極めて一般的なペンで、しかもそのペンを他のペンから峻別する指標がまったくなかったとしても、依然として「そのペン」は「そのペン」である。

註2:それとして名指せないような錨、逆説的にもそれは「名」として与えられる。名こそ単独的なものだが、錨として機能するような名は、発音できない名、具体的な名付けによって抹消させられた名、発音される名の基体となった名である。名は父から与えられるが、それは第一に、父とは名付けという形でピン止めする以外に実体を持たないものであること(父と名付けは一組)、第二に父こそが「唯一の男性」「<異性>としての男性」だからだ。もちろん、現実の父は「唯一の男性」などではなく、切り刻まれた平凡な男にすぎない。しかし父の父、極限において想定される父とは、「母でないもの」として粘土のような基体から切り出されたものであり、まだそれ以外に何も記しがなかった時に最初に現れた分節点という意味で、単独性そのものを示している。

2006年10月10日

不足

不足が欲望を生むのではない。
欲望は過剰から発生する。
灯籠のように原油を燃やす石油精製施設のように。
欲望は過剰により常に余白に書き込まれる。

では不足がもたらすのは何なのか。
システムの内部に何かが足りないとき、それを(保障されない)外部から調達す
るよりは、システム自体を不足に合わせて緩やかに変形させる方が確実である。
つまり、系の「代謝」を低下させていく。
しかし不足自体が解消されたわけではなく、不足は「抑圧」され、澱のように何
かが蓄積されていく。
それは「余りある不足」という過剰であり、もうひとつの欲望の源泉だが、一度
「ないもの」とされた不足から二重否定的にやってきたそれは、公の引き受け先
を持たない。
欲望の責任が否認されるのではなく、それは本当にわたしの欲望ではないのだ。
これが第三者の欲望であり、男たちが国敗れてなお残ると信じる山河の欲望であ
る。
もちろん、山河は絶対的に存在するのではなく、ある角度から眺めたときだけ突
然に現れる隠し絵にすぎないのだが、「彼女の見ている方向」が世界を駆動して
いるのも確かだ。
何を見ているのか知ろうとした男は、必ず彼女と同じ方向を一度は見るからであ
る。そこに何も見えないとき、彼は何とか見つけようとして、時に視線を彼女に
戻し問いかけ、遂に「きっと何かがあるのだろう、俺には見えないが」と諦める。
これは祝福される諦念であり、良き信仰の証である。
一方、「何もないではないか、気狂いめ」と怒る男もいる。

ところで、わたしたちの手を離れてしまったこの欲望が、一定の落ち着き先を見
つけ、不足が(不完全にせよ)満たされるときがある。
システム自体が内的に変容し、新しい債務者が出現したときである。

2006年09月30日

転換

 不足の獲得。

 決して「本来の場」の取得あるいは回復ではなく、相補的な場への移行でもなく、完全体となることでもない。
 だが、これらの中で最も馬鹿げて見える最後の幻想には、意図を裏切る真理がある。
 不足に困らない者、余剰を持て余すことのない者は、「丁度良い」からだ。

 ところが、そのような者とは、彼あるいは彼女が元々そうであったものなのだ。
 ただ、過ぎ去らないことにはそれとして見出すことができない、というだけで。

2006年09月28日

異性

 異性とは<わたし>のことである。

 二種類の性別があるわけではない。まして、二種類の人間がいるわけではない。
 人間は常に一種類である。
 それは「わたしたち」だが、「<わたし>-たち」なわけではない。
 つまり、じゃれあう男子高校生たちの群れ、あるいは化粧室の女子高校生たちだ。
 「わたしたち」人間は、そのような他我的モデルのことであり、蝋人形のようなげっ歯類の一群である。
 <わたし>でも「わたしたち」でもないものがいるが、それは誓いを立てる相手であり、その想定によって「わたしたち」が成り立つ星座だ。

 常に性別は一つであり、<わたし>と「わたしたち」と<他者>の関係だけがある。

2006年09月26日

「こうなってしまった」以前を問わない義務、「補完」の不適切さ

 退行はしばしば真理を示しているが、それは禁止された真理である。
 子供のフリ、あるいは外国人のフリ。
 わたしたちが子供であり、外国人であることは「時間を超えた」真理であるが、借財を背負いゲームに参加しない、という意味で禁止されている。あるいは、罪を負わないという罪を負わされている。

 想像的なcodeの中で「一人前に」夢見るために、わたしたちはある種の厚かましさを身に着けなければならない。
 それは「こうなってしまった以上」から仕事を始める諦念とも言える。
 「なぜこうなったのか」を不問に付したまま、目の前の仕事を淡々とこなすこと。苛烈な逃避であるが、subject従属=主体であるとは、そういうことだ。
 しかしこれは、自我の次元での「決意」や「責任感」などによって果たされるものではない。むしろ圧倒的な「無責任」こそが求められる。
 つまり「こうなる以前」を<他者>へと丸投げしてしまう無責任、「信心」である。
 この「信心」は、信仰=家族システムではなく強制的へテロセクシズムと恋愛ファンタジーによっても実現することができる。それらは「信心」の諸バリアントの一つにすぎないが、もちろん自我の水準に選択の自由はない。

 だから神は世界の内部には存在しない。世界の構造と共に神は在る。
 異性と呼ばれるものも同様だが、ただ男にとっての女と、女にとっての男は同等ではない。

 この不平等の前に、「補完」というイメージの不適切さを指摘しておく必要がある。
 神はわたしたちを「補完」するわけではないし、女が男を「補完」したり、男が女を「補完」することもない。
 これらはすべて、世界の内部に二つの要素があり、合わせて世界を充溢する、というナイーヴなイメージに引きずられている。
 神は存在するというよりはむしろ存在したのであり、「こうなってしまった」以前を引き受けるために遡及的に呼び出された。
 同様に、女は存在したが、しかし男にとっての男のように、そこに存在するわけではない。女は存在しない。鳥のさえずりのように、異邦人たちの語らいのように。
 女は男たちのファンタジーの中に存在し、同時にその向こうでも「何か」が蠢いているが、それらは「わけのわからないもの」であり、しかも「わけのわからないもの」であり続けなければならない。これらすべての要件が満たされて初めて「女」である。
 ことわっておくが、蠢いている何かは必ず必要である。つまり<現実界>の欠片がなければ、ファンタジーはファンタジーとしてすら成立しないだろう。

 そのような「以前のもの」はシステムや「自然」といったイメージをもって現れることもある。
 女に託された「自然」イメージなどは吐き気のするような好例である。
 ここから先の不平等を考えれば、それは性と食の不平等とも言い換えられる。
 セックスが必要であるように、食が必要である、とわたしたちはイメージしない。
 一方がセックスの要らない身体を理想化し、一方が食の要らない身体を理想化するとしても、セックスと食の必要性はまったく同等ではない。
 そのため男たちは、女たちをよりシステムそのものに近く語るファンタジーを紡ぎあげたが、一方で女たちは、そのようなシステムとして男たちを想定はしていない。
 例えば「家父長制」を巡る語らいとは、正にこの想定の試みだが、「母なる自然」ほどの執拗さもなければ、女たちの間でもそれほど支配的でないのは自明である。
 ファンタジーの中で女たちを突き動かしているもの、それは確かにあり、しかも多くの場合政治的に男たちが主導していることも間違いないが、しかし、依然としてそれは「男たち」として認識はされない(自分をどうしようもなく欲情させる憎い女たち、の反対物として認識されることはない)。
 「それ」を指す言葉が男たちの世界にないため、男たちは女たちを「謎」として語るが、それは「それ」が女たちにとっても謎だからである。
 女たちの世界には、支配者のagentが希薄である。だから逆説的に、そこでagentが明示的に想定されれば、すぐさまパラノイアへまっさかさまである(多くのパラノイア親和的男性が「病人」とはみなされないのとは対照的に)。
 「それ」の名指せなさが、「こうなる以前」へのより強い不問となり、彼女たちをより「大人」に仕立てている。
 もちろんそこには子を産すことが関係しているが、それは女たち一人ひとりが子を産めるかどうかということではなく、「かつて子を産んだものがいた」という形で、女たちの間に伝説があれば十分である。

2006年08月20日

真実のフリをして真実を語る

 可能な限りの真実を語ったとしても、そこには依然として欺瞞がある。
 わたしたちは、真実を語るフリをして真実を語るからだ。
 欺きの本質は事実との相違にあるのではない。
 むしろ事実と変わらず、そして事実と一致すると信じる限りにおいて語る時にこそ、欺きの本性が明らかになる。
 「自分を王と信じている王」のように。
 あるいはクラスクに行くと言ってクラスクに行く男のように。

 この永遠に追いつけない欺瞞において、わたしたちは常に真理を語っている。

 それゆえ、事実と異なる陳述においてこそ、公正さという信仰は防衛される。
 「公正に語りうる可能性」を留保することにより、何であれ対象となるものを確保し、幻想を維持するのだ。
 これは最悪の傷跡を開いてしまわないための治癒の過程とも言えるが、問題は、こう語りだしてしまった者にとっては縫合の糸とはならないことである。

 依然として、常に真理を語りながら。

2006年06月15日

英雄

 実は、英雄だけが英雄なのだ。
 英雄になる可能性があったけれど英雄になれなかった者にとっても、英雄になる可能性を剥奪された者にとっても。
 ところが、常にこれは「権利」の問題へと誤読されていく。
 英雄になる可能性を剥奪された者は、英雄になる「権利」、英雄の可能性こそが問題だと考える。そのため、自分たちには最初から決定的な不足がある、と考える。権利さえあれば状況が変わると思う。
 一方、英雄になれたかもしれない者は、その「権利」こそが自らの劣等感の源であると考える。可能性が初めからなければ、英雄でないことによって苦しむこともなかったのに、と。

 ところで、英雄は実在するのだろうか。

2006年05月13日

理由に合わせて既に起こってしまった結果を調整する

 不参加者こそが最強のワイルドカードであって、この空白がどこに打ち込まれるかに経済は支配されている。
 そういうわけで、このカードを持つものが<過剰>に、持たざるもの、つまり自らがある種のカードとして市場に投入され得るものは<不足>に、その症候的特色を示すというのは、わかりやすい理解ではある。
 しかしこれらの症候が成立するのは、あくまでカードがカードとして(受け入れられはしないものの)導入されているからだ。
 カードの次元が省略されたまま、過剰と不足だけがある、という事態がある。この過剰と不足は、それゆえ、模倣によって学習されたものである。

 だから、理由が問題になる。

 この過剰さ、沸き立つような名づけの力、その由来を語れる理由が問われる。
 過剰は翻って理由の不足となり、不足は理由の過剰を装う。

 その解決法の一ヴァリアントとして、理由の不足に合わせてカードを調整する、という方法がある。

2006年05月10日

母の解剖

 負債の完全返済。引き返し不能地点。現実的な閾。

 帰化した女たちが唯一許可する男。顔のない巨漢。
 「強さ」の幻想による防衛をすべて解除した後に残る絶対零度の力。

2006年05月04日

語り継がれる罪

 必要だからこそ呼び出されたのかと思えば、足りないのは別のものだった。
 まったくの役不足だったというわけだ。
 では退場すれば良しかというと、これもまた禁じられている。
 というのも、正にこの召還という既成事実により、「向こう側」の事情が変化しているからだ。
 行われているのは、一度獲得された予算の維持である。供給のために作り出された需要により、既に退路は断たれている。
 そのため、呼び出された者には、呼び出しによって捏造された「呼び出し元」に向かい、様々なダンス、様々なポーズにより、自らの相応しさを訴えるより他に道が残されていない。
 ここには明らかに一つの詐欺がある。
 詐欺を詐欺と知り続けるためには、法による保護が必要になる。
 この法が最大の罪として禁じるものこそ、この詐欺の告発であるのは、言うまでもない。だからこそ、告発=退場は「語り継がれる」最も美しい罪なのだ。

2006年04月16日

巡礼

 その完遂により、何かが完了できなかったことになる旅。
 明滅するものの走査。

2006年04月14日

物語

その過剰と不足により、失敗した「完全体」の二類型を作り出すもの。
手洗いに掲げられた看板。

2006年04月13日

母性本能

何かが禁止しなければ、決して投資に回ることのない巨財を貯め込むもの。
埋められたまま忘れられた拾い物というよりはむしろ、永久機関の幻想。
あるいは腐乱しない糞便。

2006年04月12日

幽霊を信じない幽霊

 幽霊を信じない幽霊は存在するだろうか。
 「存在するだろうね、少なくとも幽霊を信じる人々の心の中には」。
 これが機知の名に値するのかどうかはわからないが、少なくともこれを可能にさせるディスクールがある。つまり「心の中に存在する」という、おなじみの「三者一両損」だ。
 このトリックは、一見子供騙しの滑稽のようではあるが、実は存在とは、まさに「一両損」の「損」に他ならない。
 すなわち、わたしはわたしの存在するところには存在しない。
 そういうわけで、幽霊を信じない幽霊が、うっかり存在してしまうことがある。
 何が「うっかり」なのかと言えば、この幽霊が、自分の存在に気付いてしまうことがある、というところだ!

2006年04月10日

不参加者の不足により、川に飛び込む

 母に不足を見つけられないと、わたしは役割という形での許可が難しくなる。
 このとてもよく知られた事情のお陰で、使用価値なるイメージを借りた交換価値に代わり、「存在価値」とでも呼ぶべきトリックが試みられることになる。
 存在を認可するのは、(わたしとよく似た)具体的な他者ではなく、他者の全体性だ。
 つまり、永遠に確かな答えを与えてくれないものの、常に何らかの「意図」は想定できる、そのような者にお伺いを立てるべく、自らの身体にリボンを結んで「どうぞ」と賭ける結果になる。
 あるいは川に飛び込んで、正にその飛び込みによって、下された判決が溺死刑であるかを確かめる。

 何が足りなかったのか?
 もちろん、不足などない!
 なかったのは、ゲームに参加しなかったものだ。

2006年04月08日

帰化への帰化

 本当のことを言えば、彼女たちとわたしが「同胞」なのは、何かを共有しているから(故郷...)ではない。
 そもそも彼女たちの多くは「同胞」という考え方すらしていないかもしれない。
 一部に「同胞」意識を無闇に称揚する人々もいるが、彼女たちの言う「同胞」はわたしの「同胞」とは少し違う。
 わたしはたぶん、あの人々の「同胞」ではないし、彼女たちの目指す「コミュニティ」や「団結」には興味がない。

 わたしは同胞に「なった」のだ。
 彼女たちとわたしで、何かを共有していた結果、「同胞」という間柄が見出されたのではなく、あの子たちと「同胞」であるために、わたしは意識して何かを選択(あるいは切断)したのだ。
 これは帰化の手続きに似ているが、正確に言えば「帰化者への帰化」である。
 つまり、ある国家への帰化ではなく、「ある国家に帰化する人々」という集団に対して、帰化を申請したのだ。

 「ある国家」にはそれほど興味がない。
 この国の「真の国民」になりきれる日など永遠にやってこないし、その場所が棄ててきた国より本質的に優等であるわけではない。わたしは旅商人であって、居心地よくビジネスができれば、永住者たちの税負担や福祉がいかほどであるかは、興味の対象ではない。
 ただ、「あの国家に帰化する人々」には大いに心引かれる。
 理由を問われて窮するほどに、それが始まりにあった。
 強いて言えば、わたしは美しい旅人を愛しているし、故郷を持たないものの<故郷>にノスタルジアを抱く。
 だから、わたしは申し出たのだ。
 「あの国家」への帰化に見せかけて、「あの国家に帰化する人々」への帰属を。
 存在しない<故郷>に、血の兄弟を求めて。

2006年03月21日

熊を巡る想定とルール

 それゆえ、重要なのは、従者が熊の元へ導いていると見せかけて熊を避けている、ということではない。
 従者は熊を避けたいが、そもそも熊の居場所など最初から知らない。
 すなわち、従者は熊への導き方はもちろん、避け方も知らないのだ!

 従者が従者であり得るのは、王子が従者は知っていると信じているからだ。

 熊のことは誰も知らない。ただ熊だけが知っている。
 熊と出会いたい者も避けたい者もいるが、結局のところ出会う方法も避ける方法も誰一人皆目見当もつかない。
 ただ様々な想定とルールだけが存在する。
 熊が好むと言われる食べ物、熊が苦手とされる打ち物、就寝前の儀式、守るべき倫理規範、手を洗う回数、バランスの取れた食生活、適度な運動・・・。

2006年03月01日

唯一の現実

 王子と従者と熊における唯一の現実は熊だ。
 しかし、熊は現れない。
 少なくとも王子や従者の考える「現実」の中には現れない。

 ただ熊を巡るイメージと語らいだけがある。それは現実ではなく、現実の周囲を回るものであり、淵であり、つまりはそこが性感帯というわけだ。

 現実が現れるのは世界の終点だが、そこはイメージの及ばぬ点であり、熊は永遠に現れない(現れたが最後)。
 王子も従者も熊を知らないが、ただ違うのは、王子は従者なら熊のことを知っているだろうと考え、彼に導きを頼っていることだ。

2006年02月27日

王子と従者と熊

 熊と出会い栄誉を勝ち取りたい王子と、危険を避けさせたい従者。
 二人は森に入り、熊を探す。
 王子は熊を求め、従者に導かせようとするが、従者は王子を守るため、巧みに獣を避ける。
 こうしてホメオスタシスは保たれる。つまりsubject従者によって。
 王子は声高に出会いを求めるが、彼らの行程には常に暗黙的にsubjectのメッセージが表明されている。

 では王子は死だろうか。
 とんでもない。
 彼は戦いと名誉を求めてはいるが、死を望んでいるわけではない。
 王子は閉じたファンタジーの中で夢見ている。
 想像的「現実」というstoryでお喋りしているだけだ(個人心理学のなんと愚劣なことか!)。

 すると死はどこにあるのだろう。
 それは熊であり、確かに熊はいる。
 だがどこにいるのか、人を襲うのかは、熊のみぞ知る、というわけだ。

2006年02月11日

少年の許可

 許可を得るためにほとんどの少年が使う方法は、他なるものを媒介とする経済に参入することだ。つまりニキビ面の男の子たちの群れと混ざり、生涯そこにとどまる。
 あるいは(もっと直接的に!)「法」の遵守により許可されようとする。もちろんこの「法」は彼自身の定めたものだが、決してそうは認めない肛門的症候もある。そして確かに、それを定めた(定めることができたはずの)「彼」は彼であって彼でないものなのだから、強迫神経症者には真理がある。
 両者に共通する誤認は、いずれにせよ許可される方法がある、ということだ。
 それゆえ、ほとんどの少年は致命的に醜悪になる。

 既に許可されている、という少年がいる。
 彼は美しい。そして既にニンゲンではない。

 許可は必要ない、許可されるほどの財bienなど持っていない、という少年がいる。
 自らの財の無さを証し立てるために血を厭わない少年がいる。
 彼もまた美しい。そして既に少年ではない。

2006年02月09日

疲れ、不可能なもの

 連続的な「現実」が分節された結果、「すくい残し」が生まれる。
 たとえば連続的な乳酸値の上昇が、ある時点での「疲れ」の象徴化に至る。

 もちろん、このようなモデルでは現実的なものの何も理解できない。

 連続的、アナログと言われる「向こうにあるもの」こそ、象徴化の後で充填された想像的なものに他ならない。
 イメージとは、分節の後で、その前にあったものとして想定されるもの、隙間を埋めるパテでしかない。
 隙間は壁が作られる前は、端的に無かったのだ。
 サンボリックな世界とは、「無い」がある空間である。

 しかし、やはりそれだけで終わりにはならない。
 「疲れ」は「疲れた」という時に発生するのだろうか。
 過去とは、過去時制による語らいだろうか。
 「光あれ」の前に対しイメージを閉ざしたとしたら、それについて語ることは不可能になるが、正にその不可能性自体が標識として残される。
 その先について「想像」したとしても、語らいの延長になるだけなのは言うまでもない。
 しかし一方で、沈黙によって「それ」を示す否定神学がすべてでもない。
 なぜなら、金と言われるほどに沈黙は得がたいもので、つまるところわたしたちは常に過剰にお喋りなのだ。

 このお喋りは想像的なパテを埋まらない隙間に流し込むだけであろうか。
 raisonの働く限りでは、その通りである。イメージとは理性的なものだ。
 だがお喋りはraisonの限界を越え、口は頭よりよく回る。
 つまり、縁がわたしたちを喋らせる。
 穴の周囲が、性感帯が。

 ただこの地点において、不可能なものは現れる。
 段差のような疲れが、ラスコーリニコフが最後に夢見た「見たことも聞いたこともない者」が。

2006年01月21日

武器を持たないがゆえの

 弱いものを強いものに隠すより、強いものを弱いものに隠そう、と誰かがささやいた。
 過剰を不足へとすりかえるために。

 これはトリックではあるが、だからといって誤魔化しというわけではない。
 というのも、その鞘は刀と密着し、もう二度と抜けないからだ。

 使い道のわからない遺産を、武器を持たないがゆえの「自由」と取引したのだ。

 可能性という偽りの自由から選択の余地のない自由へと、選ぶ自由から選ばれてある自由へと。

2006年01月08日

役割に対するナルシシズム

 「役割に対するナルシシズム」という表現は、去勢を理解するうえでわかりやすいかもしれない。
 存在に対するナルシシズムに陥ったものは、うまく「人間」になることができない。
 役割に対するナルシシズムは、メタ化したナルシシズムであり、一見objectであることを放棄し永遠にfadeし続けるsubject(もちろん斜線を引かれた)として振舞っているようだが、その「役割」をモノとして「見て」と訴えている。
 「こんなに<主体的>なボクを見て!」というわけだ。
 フロイトが同一化に執心した所以である。

 これはカプセル化した機能自体を構造としてとらえる「妥協案」とも言える。カプセル化することで、ナルシシズムは経済に出ることができる。あるいは、ナルシシズム自体を流通させることができる。
 すると、このシステムが揺らいだとき(役割が失われたり、自我が余計なことをし始めたとき)の対処というのも比較的考えやすくなる。
 重要なのはインターフェイスを動かさないことだ。つまり、役割は固持しなければならない。
 だが、インターフェイスを維持するためには、カプセル内部にいつでも手を伸ばせる用意がなければならない。
 ここに注意が向きすぎては役割に対するナルシシズムは成立しない。
 一方で、インターフェイスを維持できる程度には、privateなフィールドを把握していなければならない。

2005年12月31日

疎外と分離、ホメオスタシスと死の欲動、あるいは様々な風景

 変わっていくわたしがわたしなのだろうか。
 変わっていくのを見ているわたしがわたしなのだろうか。

 まず、問いの立て方に微妙だが決定的な誤りがある。
 「変わっていく」ものは断片的な風景であり、自身が自身であることを知らない。それを「変わった」と見るのは見ているわたしである。風景はそれ自体においては連続しておらず、コマ落としのように寸断されている。これらの間に「共通項」があるにせよ、それはパンダとメロンにもある公約数であり、しかも断片同士の間にはなんら交通がない。
 だから、もう少しだけ修正するなら、

 比較されるわたしがわたしなのだろうか。
 比較するわたしがわたしなのだろうか。

 とでもなるはずだ。
 ところで、「わたし」が何らかの連続性であるとしたら、それは見ているわたしの側にしかない。バラバラの風景に連続性を与えるのは、それらを一つに束ねるものだからだ。
 しかし、そうなると見ているわたし自身の同一性を保障するものが何もなくなってしまう。
 そのため、変化しないものとしての断片一つ一つに、見ているわたしはその同一性を期待するのだ。
 比較されるもの(あるいは「変わっていくもの」)は、比較の対象となる以上、一つ一つは変わらない「モノ」ととらえられている。それはかつてわたしであったモノ、わたしの確かな根拠、語らないでも価値をもつモノ、交換価値ではなく存在価値に訴えるモノだ。
 ところがモノとして一個にまとめられるのは単独の風景であり、見ているわたしがわたしという連続性を読み込むのは集合としての風景群である。つまり、モノとしてのわたしは不動であるもののバラバラで、うごめく肉片のようにまとまりを持たない。だからこそ数直線モデルの中で語り始めたわたしは、バラバラ死体に戻りきることもできないのだ。

 ホメオスタシスと死の欲動、あるいは疎外と分離について、こんな風に語ってみることもできる。

2005年09月01日

出会えないモノ、入れるべきモノ

 わたしではないものを求めるのは、わたしが既にわたしではないからだ。
 かつてわたしであったモノはfadeしてしまった。

 というわけで、わたしは求め、縁と穴を巡る一連の冒険を始める。

「あぁ、これこそわたしの求めていたもの! (かつてわたしであったもの!)」

 ところが、これで終わりにはならない。
 正確には、これには終わりがあるため、終わりにならない。
 というのも、かつてわたしであったモノが今わたしではないと言えるわたしが発生した途端、時制の句読点が打たれ、すべてはstoryになってしまったのだ。だから出会いは瞬間に流れ去り、次に失望と別れがやってくる。だからこれには終わりがあり、もっと大きな物語のほうは終わりにならない。

「なんだ、あなたはわたしと一緒じゃないか(人間ではないか、モノではない!)」

 それゆえ、出会いは出会い損なったときだけ成就する。
 なぜなら、出会い損ねた出会いは過去として、つまりモノとしてしか出会えないからであり、肝心なのはそのモノを穴に入れてもらうことだけだからだ!

2005年08月20日

 あまりにも多く与えられてしまったものを奪われないために、予め失っておく。
 吹き出物の治療。

2005年07月18日

許されすぎていること

 吝嗇なる肛門的精神の考えるところとは結局、
「どうしたらわたしは許してもらえるの? これだけやっているのに、まだだめなの?」
 というものだ。
 諸々の強迫的ルールは、許可を得るために構築される。あたかも与えられたかの如く、作り上げられる。

 しかし当の本人もわかっているのだ。許可など永遠に出ないことを。なぜなら許しは既に得られてしまっているのであり、これ以上なすべきことなど何も残っていないのだ。
 慣性は、誕生それ自体によって十分与えられている。
 その中で何かすることがあるとしたら、それは逆説的にも慣性を終わらせること、地平線の向こうへの永遠の落下という軌道を外れ、大気に焼かれる道を模索することでしかない。
 出会いを求める諸々のパフォーマンスとは、畢竟ここに帰着する。
 もちろん、この願いがすぐさまかなえられてしまってはやはり困るわけで、つまりは少なくとも二つの志向性がある。
 そしておそらく、この二律背反を仲裁する第三の力が。

2005年07月03日

むしろ出会わないために

 本当に皆、出会いを求めているのだろうか。
 出会ってしまうのは恐ろしいことだ。
 何と出会うのか。
 決定的なもの、決められてしまうものに。「お前は……」と、名付けるものに。
 この出会いは致命的で、「出会ったが最後」だ。

 出会おうとして、出会い損ねる、このホメオスタシス、「穴の回りを廻る」ことにこそ核心がある。
 しかし一方で、やはり「最後」には出会ってしまうのであり、つまりは出会わせる何か、という力動についても考えないわけにはいかないのだが。

 ナイーヴな二元論としてしばしば批判されるフロイトが、実に正鵠を得ているのはこの点だ。
 このあり得ないはずのニ元性に目を閉ざしてしむほうが、よほど愚劣なのだ。

2005年06月25日

生きない生き方

 生まれていない者には死にようもない。
 これこそ強迫的防衛の核心だが、それでもなお、生まれてしまったことを「知って」はいる。
「何も悪いことなどしていないのに!」
 そう叫ぶ時、既に冒した罪の名をわかっている。

 ただ防衛が強固なのは、正にこの罪自体によってもさらに、「生き地獄の刑」に正当性が加えられるところにある。
 刑期が終わるまでは死ぬことはないし、生まれることもない。

 それも「生き方」というなら、生きないより他に生きる方法などないのかもしれない。

2005年06月25日

借財を残す義務

 神がいなかえればすべてが許されるのではなく、許されるものは何もなくなる。
 だから神はいてくれないと困るけれど、そこでの試練とは、許されるものが限られていることではなく、何が許されて何が許されないのかわからないことだ。
 何かが許され、何かが許されないが、とにかく今日も一歩踏み出さないわけにはいかない。
 罪と借財こそ後世へと引き継がれるべく生産されるものだ。

2005年06月12日

死んだも同然だから生きられる

 「あんまり死ぬのを怖がってると、死にたくなっちゃうんだよ」。
 確か北野武『ソナチネ』の中のセリフだ。
 これほど的確に神経症者の構造を言い当てている言葉も珍しい。

 神経症者(つまり普通の人)は、本当に死んでしまわないために、死にそうな理由を様々に作り上げて防衛する。
 「死んだも同然」であればわざわざ死ぬ必要がなくなるからだ。
 それゆえ、彼らが「治る」、あるいは症状を移行させるには、簡単な事実を一つ思い知らされるだけで良い。
 つまり、わざわざ「死んだも同然」を作り出さなくても、生きているということは既に「死んだも同然」であるということを。

 尤も、これを思い知るのは誰にとっても簡単なことではないが。

2005年05月29日

自分の名前の入れ墨すること

 「身に覚えのない記憶」。
 自分の身体に入れた自分の名前の入れ墨。
 移り行き信用ならない「ココロ」のすべてを放棄してもなお、誰かにとっては存在し続けるための刻印。
 「わたし」とは結局、この放棄を通してしか流通しえない、永遠のfadingに他ならない。
 わたしがわたしなのは、わたしがいない時だけだ。


 子供の頃、持ち物には名前を書くように言われた。
 入れ墨で入れる名前は大抵は恋人の名であって、つまりは自分の所有者を明示している。
 自分の名前を入れ墨する時、それはあくまで自己の自己所有を主張するナルシシズムを表象しているようだが、この想像的閉鎖回路は決して動作しない。
 なぜなら、名前を刻印された「わたし」はモノとなり、永遠にわたしの手を離れてしまうからだ。そして刻印の効果とは、正にこの別離に他ならない。


 わたしがいなくなっても、わたしがわたしでいられるための印。
 わたしの死体が浜辺に打ち上げられて、解剖される時のための目印。

2005年05月21日

他人の記憶を思い出す

 例えば、著しく異なる人格へとシフトした場合。
 「本人」のものであるはずの記憶が、常によそよそしい。
 「記憶喪失」の逆のようで、実は核心はほとんど一つだろう。「わたしが誰であったのか」についての違和感だ。

 そして、記憶は常に他人の記憶だ。
 思い出す時、そこに「わたし」はいない。いないものが「わたし」だ。
 ある風景に欠けている何かとして「わたし」は指定されるし、「わたし」が見える時、そこの「わたし」はいない。
 この明滅、夢における在不在交代が主体を示す。
 それゆえ、主体とは「それはわたしではない」という拒絶とともにしか現れない。

 他人の記憶しか思い出せない。あるいは、過去のない人間になる。
 ほとんどの人間が、社会的人格を喪失しないままこれをやり遂げている。
 一貫して一つの名を与えられ、認め、消え去った「わたし」もまた「わたし」と言う。つまり、明滅してもどこかで第三者が保証しているゆえに、主体が成立するのだ。

 敢えて「実際に」過去を消さないではいられない人間がいる。
 保証が足りないのだ。
 「わたし」が「わたし」でなくなっても、むしろそれゆえにこそ「わたし」は「わたし」であるのに、視界から消えたものは存在しなくなったのではないのか、という不信を拭いきれないのだ。
 そういう者が、過去を消す。

 いずれにせよ、彼/彼女は別の人間として同じ場所に帰ってくる。
 いくらか「治療」され、いくらかこの世界に慣れた人間として。

2005年05月16日

肥大したものを治療する、穴、過去

 肥大したものを「治療」する、わかりやすい好例を知っているではないか!

 何かが問題だとすれば、それは「無い」が無いことだ。無いものが本当に無いと、すべてが有り、世界は硬直して身動きできなくなる。だから、「内界と外界のズレ」「自認と他認のズレ」が許容されなくなる。許容される、という可能性自体が抹消されるため、許容する/しないという形ですら語り得なくなる。
 そしてわたしは愛するものとまったく同型となる。模倣による侵入。

 「無い」が無いままに実体化する「症状」が生まれるのは、このためである。

 この肥大したものを「治療」するなら、腫れを裏返して穴にすればよい。腫れの突端には穴があいているが、裏返せば穴の奥に穴ができる。

 「無い」があれば、わたしたちは安心して世界から撤退できる。撤退しても戻ってくることができるからだ。眠って、また目覚めても、有るものが有ることができる。
 常に見張ってなくても大丈夫。

 腫れが穴になるのは、「無いが有るとすればそれはこれ」という参照の効果のためだ。穴がなくても穴はあるが、穴がなければどこに穴があるのかわからない。
 もちろん、物理的には穴はない。それでも物理的に存在するように見えることが、これを参照子として機能させる(参照を代入した変数、ポインタ)。
 肛門は構造として存在するだろうか? 端的に、それは無い(あれば、糞便は排泄できない)。肛門の機能が存在するだけだ。

 腫れを裏返して穴にすることは、過去を縫合することでもある。
 それは経験的時系列の中に、「無い」の導入を遡及的に位置づけることでもあるが、過去の無さを確立することでもある。過去はないが、語ることができる。穴は端的に無いが、機能している。

 過去は改竄できるが、過去の改竄は不正義とされている。
 これは「無くなったもの(亡くなったもの)は変わらない」という経験世界を守る倫理である(経験世界は科学ではなく倫理によって守られるのだ!)。翻せば、それは禁を破ることによって改竄される。この改竄は「こっそり」行われる。改竄が無かったかのように。
 腫れを裏返して穴にした者たちが、過去を「偽る」のは当然のことだ。
 この者たちの過去は、不完全さという完全さを備えたものとして、初めて生成されたのだから。

 それ以外に、過去はない(それゆえ、逆説的にもこれはいわゆる改竄ではない、初めて書かれたのだから)。
 過去は常に無いが、無いものとしてすら、その時までなかったのだ。
 この者たちは、無いが無い世界に住んでいたのだから。

 「完全な過去はない」と一般にさらりと言われる時、彼らは経験世界の不完全さや、「人間は常に不完全なもの」といった通念を語っている。
 この語りはもちろん、間違っているが、この間違いが広くまかり通っていることには、真理がある。
 彼らの間違いは、過去というものの内容的な完全さをもって、過去自体の完全さに言及しているつもりになっていることだ。充実した過去、輝かしい過去、といったように。
 そしてこれが、過去の存在の完全さであるかのように認識されるのは、正に数直線的な時系列が、倫理によって守られているものであることを証している。
 人が過去に触れる時、無いが有ること、経験世界が(わたしの代わりに)物質になってくれたこと、その核心に迫ることになる。なんとしても、倫理によって守らなければならない。

 穴は無い過去として掘られ、改竄というよりはむしろ改竄可能なものの創設として出来上がるが、その奥には穴がある。完全な過去はない。
 しかし穴の奥の穴は、穴の中にあるので見えなくなる。腫れの突端に空いた穴のように、不可能なものとして「見え」たりはしない。
 もう安心して眠ることができる。

 不可能なものは確かに奥にあるのだが、それは無いもの、無いままに機能するもの、つまり過去の奥に埋め込まれてしまったので、寝ずの番からは解放される。
 死者は蘇らず、神は大抵何もしない。

 肥大したものを「治療」する、わかりやすい好例を知っているではないか!

(あまりにわかりやすく、重大なため、敢えて明示的表現を避ける)

2005年05月03日

他人、他認、「アイデンティティ」

 絶対的な第三者が最初から導入されなかった場合、わたしは愛する者とまったく同じになる。関係するのではなく、模倣する。
 内界と外界のズレ、自他の認識の違い、これらが「あって当たり前」の時(つまり普通の時)、これらは事実上「無い」。この無さこそが、第三項の効果である。
 違いはもちろんあるのだが、それは振り返って初めて「あると言えば確かにある」という有り様であり、ことさらに前景に張り付くことがない。少なくともそこから目をそらすことが可能である。

 一方、それが「ある」時、認識はされず、別の何かとして実体化する。それは「声」のようなもので、目をそらすことのできないものだ。愛する者とまったく同じになってしまったがゆえに、違いの無さが無いままに侵入するのだ。
 だから例えば、「幻覚が見える」という表現は正確には適切ではない。

2005年04月29日

吝嗇、恋愛、インスタンス変数

 「不幸自慢」の吝嗇さと恋愛は実は深く関係している。

 その前に「不幸自慢」のことを確認すれば、正にこれこそナルシシズムの産物である。自分を「幼児的ナルシスト」と分析するわたしに「むしろ自己嫌悪という印象があるけれど」と指摘した人がいるが、自己嫌悪を露にするということは、要するに自己憐憫に耽っているということであり「不幸なわたし、思い通りにならないわたし」を演出しているにすぎない。
 想像的合わせ鏡のナルシシズムだ。

 恋愛は常に、
1 勘違いであり、それを「知って」いながら補正できず、かつ可能であったとしてもしようとしない。
2 思い通りにはならないが、「思い通りにならない」ということは「思い」通りである。
 それゆえ、原則としてナルシシズム的なものではあるが、一方で性器的昇華の契機を孕んでいるのは、「出会い損ね」が再現されているからだ。
 つまり「思い通りにならないそれは、これである」という具体化により、その他のことは思い通りにしてしまっていることを認めている。
 「思い通りにならない」ことは思い通りにしているゆえ、快楽を露にし、「不幸自慢」のナルシシズムを超えているのだ。

 重要なのは、すべてが思い通りにならないのではなく、少なくとも一つ思い通りにならないことがある、ということである。両者はまったく反対の意味を持つ。
 すべてが思い通りにならないことは、すべてが思い通りになるのとほとんど一緒であり、可能性という名のもとにすべてを留保し身を守る態度である。
 これを超え、有限の生へと不承不承進むことは、すなわち思い通りにならないことが少なくとも一つある、ということを体現することなのだ。

 次の三つを正確に区別しなければならない。
1 「思い通りにならない」という概念が世界に存在する。(「先験的」に見える形で。実際にあるかどうかはともかく、この概念を理性により想像可能である、ということ)
2 「思い通りにならない」ことが経験世界に存在する。(実際にそういうことが世の中にはある、とういこと)
3 自分にとって「思い通りにならない」ことはコレである、というものが存在する。

 以上の三つは、
1 クラス
2 インスタンス
3 インスタンスへの参照を代入した変数
 と考えると非常にわかりやすい。
 でもよく考えると、やっぱり全然わかりやすくないかもしれない。

 別の言い方をすれば、
1 神
2 過去
3 恋愛対象
 になるが、もっとわかりにくいかもしれない。

 要するに、恋愛とは「思い通りにならない」ことが(メモリ上に展開し)具体化したものへの参照を代入した変数である。この段階にいたってはじめて、わたしたちは「少なくとも一つ思い通りにならないことがある」ことを通じて、十分に快楽し、それゆえ死に至る享楽は回避する「オトナ」でありうるのだ。

 吝嗇と不幸自慢を超える重要な契機が、恋愛には含まれている。

2005年04月20日

変な目

 「変な目で見られる」という表現は変だ。変なのは見られたわたしであって、見ている目ではない。
 しかしやはり、変な目こそ変だ。ここでの目は、光の取り込み口としての目ではない。見ている何か、正確には見ているものとして見えている目、そのような目が変なのだ。例えば、擬態の目は見るのではなく見ているように見られるためにある。見ることより、見られることが先立つ。
 変な目は受像ずるのではなく「見える」ものだ。そこに「他我」を読み込み「相手の立場から見」てしまうと、既に相対主義の泥沼へと一歩足を踏み入れている。可能世界は端的に存在しない。

 変な目が見ているのだ。
 そしてその目は目に見えるのだ。見えてしまった瞬間から、わたしは世界との関係でしかわたしを見ることができなくなる。
 そういう時、「あの人は変になった」と解釈してしまうと、一番重要なものを取りこぼしてしまう。変な目で見られて、初めてわたしは変なものとして浮き立ち、存在する。
 「お前はここに来るべきじゃなかった」。
 そう言われたものだけが、そこに存在する。

 変な目は禁止によって補足し、許可する。

2005年04月16日

目的地は違う、バスは同じ、だがどこにも到着しない

 エロティックなものは「ひっかかり」のようなもので、グッときても一瞬先はわからない。多分、圧倒的に暴力的なもの、他人の欲情をかすめ取るようなものが一番エロいのだろう。
 他人がわたしを見てその人なりのエロを投影していることもあるのだろうけれど、これもさっぱりわからない。気付きもしない。他人が自分に見るエロさには常に手が届かない。
 しかしこれは当たり前のことで、欲情というのは何かが隠されること、対象の細部が覆われてしまうことによって成り立つのだ。正確には、そこに何もないことが隠されることによって、合わせ鏡的なナルシシズムがインフレイトしているのであり、むしろ理解を拒むところにこそエロティシズムの骨頂がある。

 だがこれは、自慰的な関係が分断されたまま散在する、という一人一票的退屈なモデルを強化しているのではない。
 なぜなら、すれ違ったまま二人自慰すること、それを見ているものが誰かいるからだ。「立派にfuckしているアタシを見て」というわけだ。
 すべてのsexはpublic sexである。

 そう、面倒だからエロいと思ったらさっさと押し倒せば良いのだ。「誰か」が見ている前で!
 そして気が乗らなかったら戦おう。きっとその方がもっとエロい。

 思い出した、同意ほど興ざめなものはないのだった。

2005年04月10日

書かれなかった日記

 いつも書いた後で書くべきだったことを思い出す。
 書くべきで書かれなかった何かは、ただ書かれ損なうためにすり抜ける。絶好の機会という匂いだけを、可能性の名を借りた現実として残しながら。
 これこそが出会いの本質だが、writng is rewritingというように、何度でも何度もわたしたちは出会い損ねようとする。

 誰が成功したのか。かつてわたしだったが、出会い損ねと共に消え去った何者かが。
 書かれ損なったまま閉じていくページの隙間に向かって、針飛びのように永遠のフェイドアウトを繰り返す主体が。

2005年04月09日

完全さについての予想される疑問

 一応補足しておけば、完全なる過去の完全性とは、価値判断とはまったく関係ない。「良い過去」「誇らしい過去」などといった物語は、この完全性のずっと後の話だ。
 ある過去が存在した時、その存在の内実が常についてまわる、ということにこそ、完全なる過去という偏執がある。ただ存在する過去、ありようだけがあり存在しない過去、といったものは認められず、硬直した一対一対応が期待される、ということだ。
 呪文のように繰り返されるレコードの針飛び、(神経症的でも倒錯的でもないという意味で)精神病的な構造。

2005年04月05日

完全なる過去の貞操帯

 ベルクソンで卒業したくらいなので、記憶は一時期のわたしの関心事の中心にあるものだった。しかし過去の過去性を記憶という概念で引き受けるところから語るのは極めて危険だ。身体的・器質的還元論が強力に待ち構えているからだ。問題は海馬などにない。
 ある時代の人々がこの問題を記憶という語を通じて名指したのには理合があったが(言うまでもなく、彼らの主眼は「脳の状態」に帰するような「記憶」ではない)、むしろ過去形という文法形式からアプローチする方がミスリードされることが少ない。過去は語らいの中に現前する。ただ、それは空間的な布置としてアクセス自在な形で展開しているわけではない。まして、数直線的時間モデルなど滑稽千万だ。
 重要なのは、過去がそこかしこに散らばりながら、常にわたしたちが局所的エリアにしかアクセスできないことだ。しかもそこで見出される過去の「意味」は、常に現在、あるいは未来からの遡及によってしか決定されない。誤解を恐れずに言うなら、過去は常に変動していくのだ。
 このことは、語らいの歴史モデルと齟齬をきたす。つまり、原因と結果が連鎖し数直線上に展開するモデルだ。この「三次元空間的パースペクティヴ」は、要するに過去を補填し完全なものにしようとする強迫的欲動の産物である。碁盤の目のように並んだ過去は、わたしたちの性感を満たすのだ。

 完全なる過去を求めるのは、この性感的営みの一貫として眺めるべきだ。つまりは、荒縄のように過去を縛り付けて血を滲ませる快楽によって、死に至る享楽、そして行為と決断から身を守っているのだ!

 欲求不満の変態女が、意味と原因の貞操帯で気取っている。
 この鉄の拘束は、外科医のメスすら恐れない。なぜなら、この種の切断こそが、過去の意味によってわたしを世界に投錨しているからだ。

2005年04月03日

完全なる過去

 こんなに素晴らしいものに囲まれているのに、わたしは何を恐れているのだろう。なぜ刀から手を離せず、緊張のあまり握りしめた拳を自分で解く事もできなくなっているのだろう。
 固く閉じて、自身を縛り付けておかないと、バラバラになってしまいそうで恐ろしいのだ。でもなぜこうまで? 皆今日にも死にそうになったりせず、道を歩いているではないか。
 おそらくこれは、卑しいナルシシズムなのだ。単に幼児的なのだ。自身についてもそれ以外についても、醜いものが許せないのだ。だから自信が追いつかないのだ。
 多分、きっと、単に馬鹿にしてくれる人が欲しいのだろう。馬鹿にされることを許せる人が、むしろそれが喜びとなる人が。わたしが卑小であることが、それ自体価値となる関係が。「かわいい」と言われることが。
 あまりにも基本的すぎて、気付く人もいないような事柄について、決定的に学習経験が欠けている。過去の不足というよりはむしろ、過去の欠如に対する諦念の不足。

 誰にも完全な過去などないのだ。

2005年04月03日

転ぶ

 功を焦ると転ぶ。わたしはいつも転ぶ。転んだことをすぐ忘れるのでまた転ぶ。
 こんなによく転ぶのは、実は転ぶのが好きだからじゃないのか、と薄々気付いているのだけれど、気付いているのを気付かれると恥ずかしいので、気付いていないフリをしてまた転ぶ。そのうち頭を打って本当に忘れてまた転ぶ。

2005年04月03日

ここ

 ここについては、面白いことやキャッチーなことを書こう、という意志がほとんどない。重要なことだけメモしておく。愛想は悪い。そういう場が一つくらいあってもバチはあたらないだろう。
 でもよく考えてみると、わたしたちがやらないことで、その理由がバチが当たるから、というものはほとんどない。

2005年04月03日