風
ときどき、風を感じる。
わたしは岬に立っている。
立ち止まりながら、グライダーのように飛翔している。
わたしは一人だ。
戦うために生まれてきた。
セックスするために生まれてきた。
2007年10月06日
可能な性関係
あなたのファンタジーがわたしを抱けるなら、わたしを抱いたらいい。
そこにわたしがいなかったとしても、わたしたちは多分、セックスしているのだ。
誰も届いたりはしない。
好きなようにわたしの上を通り過ぎればいい。
そこで語られる物語に、わたしは届かないが、届かないわたしのことなど、わたしは知らない。興味もない。
わたしは墓の下で死を待っている。わたしの上で誰かがセックスしている。
2007年10月03日
将来のゆめ
うさぎになること。
2007年09月28日
凪とは物質である
凪とは物質である。
言語を解毒し、モノとしてファンタジーのスクリーンに回収される。そんなつまらないことが、静かに眠るための鍵にもなる。
凪とは物質である。
英雄以外の何かとして生きるために、ただ凪だけを求めてきた。
しかし、本当の恐怖はここから始まる。
<わたし>は、英雄でも物質でもないからだ。
主よ、凪が凪であるのは、物質すら束の間にすぎないからなのか。
ならばせめて、束の間の身体を。
2007年09月16日
鞘
抜いたならば、必ず斬れ。
そして剣を鞘の収めよ。
ただし、この時誤って異なる鞘に剣を収めてしまったとしても、その非は問わない。
2007年09月16日
物語よ
物語よ、なぜお前はそうまでわたしを守るのか。
何度となく踏みつけにされたのに。
これがわたしの罪であり、ヒトにさせようという計らいなのか。
お前の庇護が、わたしを苦しめる。
守られるのは、わたしが弱いからだ。
庇護とは返しきれない借財であり、罪である。これにより、わたしはヒトになるが、それが悲しくて悲しくてならないのだ。
2007年08月24日
安心
様々な安心がある。
安心は<無限なるもの>であるがゆえ、<有限>のリソースでいかなる安心を買うか、には限りがある。
「どの安心を買うか」こそ、人々を最も決定的に分断する。
なぜなら、安心、この「儚き無限」こそ、わたしたちのパトリの何たるかであるからだ。
そして、選ばれる安心、それは既に選ばれている。わたしたちが選ぶより前に、わたしたちを選んだものによって。
「いかなる安心か」は、遺産であり、呪いであり、受け継いだ借財だ。
そしてこの借りを返すためには、「いかなる安心か」ではなく、ただ「その」安心を買いつけることだけに専心しなければならない。
もちろん、安心を「買い切る」ことはできないし、借金を全返済することもできない。
安心は人々を分割する。
借財の種類が人々を「人種」にする。
それゆえ、安心こそ、諍いの種であり、疑うことのできない戦争なのだ。
それは安心を捨て、安心のために戦うことだ。
ただ、戦争の後に残るであろう自らの死体だけが、安心である。
わたしの安心は、あまりにも人々から離れすぎた。
2007年08月18日
うさぎ
うさぎは、寂しいと死んでしまうという。
わたしは、自分が死んでいるのに気づいていないうさぎかもしれない。
ある時から、足を踏まれても耳を引っ張られてもちっとも痛くないことに気づく。
そうすると身体もどんどん大きくなって、ネコが来たってトラが来たって後ろ足で跳ね飛ばす。
どこまでもどこまでも走る。虹の上まで走って行ける。
強く強くなったものは、その強さで、弱いやつらをペチャンコにするのが仕事なのだ。
でも、何か、大切なことを忘れている気がする。
思い出すと、取り返しのつかないことになるから、思い出せない仕掛けになっている。
だから、覚えているのは、誰か別の人。
ワタシヲ、ワスレナイデ、オネガイ・・・。
2007年08月05日
夢
本当に会いたい人が、亡霊でしかないことに気付いてしまえば、現実性という夢に逃げ込む必要もなくなる。
ただ眠ればいい。
ずっと眠ってしまえばいい。
彼も彼女も、二度と戻ってくることはないのだ。
さようなら、おやすみなさい。
2007年07月16日
再-人間化の引力
人間をやめることは難しくない。
問題は、再-人間化しないでいることだ。
それは<法>の水準における善ではあるが、物質的な倫理を満たすものではない。
2007年07月09日
戦争と治療
世界は一つの死の残響である。
病はこの時開かれ、同時に閉じられるが、閉鎖は完全ではない。
この通路を経由し、殺害がわたしたちを導く。接近しながら、接触しないように。
だから、病を閉ざすには一つの方法しかない。
戦争だけが、戦争神経症を癒す。
2007年07月02日
戦後者たちと戦争者
人間、つまり神経症者であるとは、戦後を生きることである。
人間たちは戦争を通過し、そのフラッシュバックへとたびたび呼び戻されながらも、既に戦争の終わった世界を生きている。
戦時に神経症者が減少することは知られた事実である。
人間ではない者とは、今戦争を生きる者だ。
2007年07月01日
戦闘ダンス
踊りたいのか戦いたいのか、いつも悩ましい。
踊るように戦いたい。戦うように踊りたい。
2007年06月28日
母の解体
父を殺す前に、母を解体せよ。
この地に、殺めるほどの父はいない。証左として、父殺しの神話すらない。
母を殺し、言葉を奪い、肉を肉へ返さなければならない。
2007年06月24日
背中を愛する、生まれなかった子供
背中には一度も生まれなかった子供が張り付いている。
水子の表象は適切だが、その子はわたしたちすべての背中に張り付いた<失われたわたし>だ。
かつて<わたし>であったもの(モノ)、それは一度も物語の中には登場していない。なぜなら、そのモノから切り離されることで、わたしたちは物語ることを始めたからだ。
あなたを愛する人はあなたの背中を愛する。
あなたはあなたの背中を見ることができないが、そこに穿たれたモノの領域だけが、あなたと絶対的第三者を仲立ちしている。
2007年04月19日
なぜ何かを隠さなければならなかったのか
隠されたものが何もなかったから。
何かを隠さなければ人間にはなれない。
だから、隠せるものなら何でもよかったのかもしれない。
でも本当に?
まだ十分ではない。
隠すものとして<それ>が選ばれたことには、(アイデンティティなどという戯言は論外にしても)「心理的」ではない、何か別の理由があったはずだ。
その理由が、どうしても思い出せない。
だから本当に隠されたのは、<それ>ではなく、<それ>が選ばれた理由である、とも言える。
2007年03月24日
不可知のものの存在、額面
額面どおりに受け取るものは、アクティング・アウトする。例えば「なるほど、いかにもわたしは外国人」と納得するために、外国に旅立つ。彼・彼女らはout-lowであってもoutsiderではない。想像的平和がこの人びとを守る。
「まともな」人たちは、物事をそれほど額面どおりに受け取らない。「まともな」信仰とは、それほどには信じないことだ。
今ここにないものも存在しないわけではない。不可知のものは存在しないのか? もちろん、そう問うことはいつでもできる。だが、ほとんどの人びとは、それが「存在しない」とまでは考えない。
不可知のものの存在を保証するのは、「見守ってくれている」第三者の保証があるからだ。わたしが見ていなくても、彼が見ている。
だから、「まともな」人びとは今ここにないものも概ね存在を信じている。それらは「隠れて」いるだけなのだ。
重要なこととして、彼・彼女らは、保証してくれている第三者までも、それほど熱心に信じてはいない。多分、不可知のものの存在を保証するもの、それすらあまり当てにはならない。端的に言って、そのようなものは多分存在しないだろう。
存在しないものによって保証された存在を信じることができるのは、保証するものについて大切なのが、それが存在することではなく、その存在を願うことだからだ。仮に存在が決め手になるなら、第三者はさらにそれを保証する存在を必要とし、無限背進に陥るだけだ。
保証するものは欲望の回路の中で機能する。それは明滅するものとしての<わたし>が要求を繰り返す、という形で様々な縁にピン留めされている。わたしたちが、ただ存在する享楽から引き離されるということは、これに代わり世界の存在を保証する欲望の回路を回りだすことと同時的だ。
しかし、このような回路に入り損ねたものがいる。
この人びともまた、額面を信じないが、額面どおりに受け取ってアクティング・アウトすることもない。
彼・彼女らは、額面の「本当の意味」を見つけようとする。
もとより保証するもののない額面に真の意味を求めても、合わせ鏡の地獄に陥るだけだ。この地獄は果てしなく、もちろん「本当の意味」が見つかることはない。「本当の意味」は一瞬のきらめきとして見出されるが、それは手の届かない「ただ存在すること」の如く、すぐに彼方へと去ってしまう。
限られた人々だけが「本当の意味」を見つけ、遠くへと旅立った。彼らのことを見たものも聞いたものもいない。
あまりにも遠く、とても遠くへと旅立ってしまったのだ。
2007年02月10日
サイボーグの履歴書
最初戦闘用に開発されたが、期待された性能を発揮できなかった。
セクサロイドに転用を図ったが、ここでも不適格だった。
現在、通常労働用として実用に耐えるか試験中である。
2007年02月06日
音楽
睡眠。
それだけが重要であることの証明。
2007年01月15日
意味
催眠術。
忘れてはならない、目的はいつも睡眠なのだ。
2007年01月12日
憎悪の仲裁
たった一つ、美しいものと安心できる場所があるだけで、醜悪な世界全体を許すことができる。
これは極めて幼児的な幻想だが、そのような一方的偏見と一方的かつ利己的寛容が、非常に多くの争いを仲裁できるのも事実だ。
2007年01月02日
見ているわたし
鏡の中に、唯一映りそこなったもの。
fadeする切り裂かれた主体。
2006年10月27日
責任の範囲
「誰が思考しているのか」については思考しないことだ。
それは権限の範囲を越えている。
「誰が思考しているのか」は、思考の結果を受け取った(その思考を呼び出した)オブジェクトが思考することだ。
ところが、わたしたちには「誰が思考しているのか」を思考する再帰的能力が備わっていて、これが「健全」な精神生活を脅かす。
つまり、invokeさせられた段階で、わたしたちにはある値がセットされるわけだが、その値は個別性の識別子であるように見えながら、その個別性をインスタンス内部からしか参照できない、無意味な識別子なのだ。
だから、その識別子(とそれを活用するメソッド)については、存在だけを知っていれば良い。
要請があったときには、しかるべき手続きに則り思考し、それ以上思考しないことだ。
2006年10月09日
時間のかかる証明
ロジックに時間がなくても、ロジックのトレースには時間がかかる。
自然科学的な「帰納的」証明については言わずもがなだが、ここでは関係ない。
さて、ある証明には時間がかかる。
あるいは、かかる時間自体が証明となる。
証し立てなければならないのは、単独性の個別性からの峻別である。
<わたし>がまったく何でもない人間であったことを、未来における過去として、語れる場を作らなければならない。
それが唯一の平凡な任務であり、正にfadingしていくことがその軌跡となる。
わたしは消えいくことで証明される。
2006年10月07日
眠り
さしあたって、温まることだけを考えていれば。
2006年09月26日
何も起こらない
神様はきっと、わたしが生まれたことにも気付いていない。
だから大丈夫。だから大丈夫。
恐竜の足元をチョロチョロ駆け巡る哺乳類のご先祖様みたいに、こっそり走り抜けてしまえばいい。
2006年04月26日
原因
強すぎる母の話なら聞き飽きた。
2006年04月13日
汝閉経するなかれ
わたしはもちろん、「閉経後の女は女ではない」などとは思っていない。
しかし、その存立自体が、「閉経後の女は女ではない」とする何かによって基礎づけられた「女」が存在する。
例えば、わたしが帰化申請した旅団の者は、まさに「閉経後の女は女ではない、その閉経後の女」である。
まず、一つの問いがある。閉経後の女が女ではないとしたら、それは一体何なのか。
もちろん、正に「彼女」こそが女である。
まったく過不足なく、語の真の意味で女である。
それゆえにこそ、「閉経後の女は女ではない」という、防衛的ファンタジーが必要とされたのだ。まぎれもなく女であるような、圧倒的で不気味なものを視界から遮断するために。そこに何かが「ない」ことを隠す為にこそ、ミニスカートが存在するように。
しかしここで、ゲームの外に放り出す作業がうまくいかない場合がある。
つまり「閉経後の女は女ではない」として放り出す女を作り出すことに失敗したため、「閉経前」の女を獲得できない、という事態だ。
言うまでもなく、この場合にすべての女が「閉経前」とはならない。神がいなければすべてが許されるだろうか? 否、神がいなかければ許されるものは何もなくなる!
そういうわけで、歴史の大分後になってから、「閉経後の女は女ではない、その閉経後の女」を作り出す物語が生まれる。
もちろん、その女は目に見えない。見える女はすべからく「閉経前」なのだが、この物語で独特なのは、ただ「閉経前」と「閉経後」があるのではなく、ファンタジーの内部に交換不可能なコードが出現する、という点だ。これは不参加の女が硬直的にねつ造された結果である。
つまり、ここには次の驚くべき法がある。
「閉経するなかれ」。
そういうわけで、わたしは簡単に閉経するわけにはいかない。
2006年04月09日
旅先での売春、オンナであること
社会的に存在してしまうことの気の重さ。
観照の快楽から去勢されることによってこそ、fadingする対象として経済に参戦するわけだが、これは実に、実に実に、気が重い。
一方で、旅人であれ異邦人であれ、何らかの形で交流を保たないわけにはいかず、そもそも旅費を調達する必要がある。先進国は物価が高い。
そういうわけで、モノであることを諦めきれないある種の人々は、神経症的ではなく精神病的な様々な戦略を考え出す。
例えば、パートタイムの売春婦。
2006年03月12日
travel me
わたしを、旅する。
もちろん、探すべきはわたしなどではなく。
わたしではないもの、かつてわたしであったけれどわたしではないものを求めて。
その出会い損ねの平衡が破れるとき、旅は大気圏に突入し、燃え尽きるのだろう。
2006年02月01日
法則
すべては人間が決めているが、人間を個人の中に発見することはできない。
だがもちろん、存在する人間が個人なわけでもない。
個人は人間の中に発見されるが、この発見はたちまち塗りつぶされ、想像的な個人の群れだけが視界を覆い尽くす。
2006年02月01日
お母さんが
もっと言ってしまえば、お母さんが好きすぎて、それでもなんとか単に普通にスキと言うために、ここまで来たのだろう、と実はわたしは知っている。
でも何はともあれスキというのに障壁はなくなったわけだし、神様のくれた症候は悪くない防衛として機能しているのだから、敢えて治療する必要は全然ない。
なぜなら、わたしは「これがわたしの症候であり、罪である」と胸を張って言えてしまうからだ。
これは「アイデンティティ」だろうか? 笑止!
強いて言うなら「インターフェイス」だ。
重要なのは実装ではなく定義なのだ。
2006年01月02日
何も作らないエンジニア
さっき気付いたけれど、どうしてこんなにもささやかな会話すら成り立たないのか、と思ったら、エンジニアには全然話が通じないのだった。すっかり忘れていた。
もちろん、わたしはエンジニアなどではない。
プログラマですらないかもしれない。
じゃぁなんやねん、と言われると答えに窮してしまうところが、本質的に犯罪者なのだ。
生まれたときから前科者。
なるほど、いつも焦っているわけだ。
ただまぁ、モノの相手はヒトの相手よりは気持ちいい。
モノよりもカタチがもっと素晴らしい。
カタチより神様が最高だ。
神様のことしか考えたくないけれど、GUCCIのブレスレットが欲しいから会社に行く。
2005年12月20日
フラグメンテーション
人生は断片化している。
わたしは総合的に存在する。
2005年12月13日
自由
求めれば失い、発見するより他にないもの。
発見とは、ここをここでなく見つけること。
それゆえ自由は、四肢を遠隔制御するようにしか感じられない。
2005年11月07日
変わっていくわたし、欲望の余白、転移
「変わっていくわたし」を心地よく眺められるのは、変わらず見ているものがいる時だ。
「変わってしまったわたし」が苦しめるときも、同じように見ているものがいる。
見ているものもわたしなのだが、そのわたしを保障するものがない以上、固着点(アンカー)が必要になる。アンカーと見ているわたしは共犯関係にある。なぜならアンカー自体にも特段の根拠はない以上、見ているわたしとアンカーは相互安全保障という幻想によってのみお互いが成立しているからだ(S/<>a)。
少し卑近に考えてみる。
見ているものが定かでなくなってしまったとき、つまりアンカーがあやふやになり(欲望のmarginがショートカットされてしまい)「見ているわたし」以外に頼るものがなくなると、「変わっていくわたし」は致命的になる。それは既にわたしではなくなり、わたしは過去を持たなくなるからだ。
だから、実はわたしが重要なようでアンカーこそが最後の頼りだ。
わたしたちはナルシシズムの外部には出られないが、一方でナルシシズムをショートカットすることもできない。完全なショートカットは去勢の「排除」であり、シュレーバーだ。
欲望の成り立つmarginとは、転移の起こる余白でもある。
2005年09月11日
物語の内外
物語の方にも行ききれない。
物語の外にも出られない。
世界のすべて(目に写るすべて)を物語に押し込むこともできなければ、目的を排除し切ることもできない。目的と原因は常に結果的に読み込まれる以上、原理から取り除いたとしても失敗が原因を作る。
これは疎外と分離にも対応する。つまり、モノとしてのわたしと、語られるものとしてのわたしに。
位置づけを持つものと、位置から独立したもの。
2005年09月08日
猫
彼女はかわいい。でもかわいいと言われると彼女は複雑なのかもしれない。誰でも複雑なのだ、と言いたいけれど、どうも複雑じゃないヒトの方が多数派らしくて、でも彼女もわたしも多数派ではなく、それでもわたしと彼女はかなり違って、複雑なりに複雑さが違う気がする。
自分が言われて複雑なセリフを平気でヒトに言ってしまうわたしはずうずうしい。しかしこの「ヒトを人とも思わない」ずうずうしさこそ、エロの本質でもある。驚いたことに、多くの男たちがこんな簡単なことに気付いていない。
彼女はわたしを「エロい」と言って、その「エロい」はその言葉の使い方をわきまえている感じでとてもうれしい。人間のフリをするのは、結局「人間のようで人間ではない」時の落差を捏造するためなのだろう。女というものはそういうものだ。
だがそこで醸成されたエロさと、そのエロさを活用できるドライブを持った人々の間には通底がない。そのとき、わたしたちは「オナジニンゲン」などでは決してないからだ。
わたしたちは常に出会い損ねる。
でもわたしは絶対に猫を飼わない。
2005年09月07日
複雑な機械・欲望・取扱説明書
時間ができると、アンカーが緩んで「本当のこと」が見えてしまう。
ダミーに打ち込んでいた杭の向こうに、何がぶら下がっていたのか思い出してしまう。
世界はシンプルで、欲望が回る中心点も明らかだ。
「わたしを利用してください」。
もっとあからさまに言おうか。
「わたしの身体を利用してください」。
問題は、それをどうやって利用するのか、わたし自身にもわからないということだ。おそらくは誰にとっても、そのモノの使い方はわからない。預かり物の複雑な機械には、取扱説明書がついてこなかった。
だから欲望はぽっかり空いた穴の周囲を巡るしかない。その届かなさ、その何もなさを隠すために、さまざまなアンカーを使う。
たとえば、食べて吐いてみる。
たとえば、お金を貯めてみる。
2005年08月28日
raison
不足しているのは、常に理由だ。
2005年08月17日
純粋快楽
純粋な快楽というのをどこかに保存しておきたい。しかしこれは難しことだ。
セックス? 食べ吐き?
これを形にしておきたい、変数に代入しておきたい、というのは、要するにそういう純粋快楽が何もないからだ。
だからこそ、死ぬギリギリくらいにいる方が常に快楽を貪れて楽と言えば楽なのだ。拒食と過食を繰り返すのもそういうことだろう。非常にわかりやすい。
おそらくこの定式化された快楽の最たるものが人格なのだ。わたしには壮大なフィクションと一体化してしまおうとした過去があるが、人格を持つということがすなわち、循環と摩擦のマスターベーションに他ならないからだ。
ところが驚いたことに、人間たちはそれを自慰と知らずに日々繰り返しているのだ! これは本当に、とても不思議なことだ。つまり、ここで生まれた快楽は神様にでも送信されているらしい。
そうしている間にも時間は流れ、朝が来て、また朝が来て、朝が来る。ある日突然来なくなって、代わりに誰が来るのかは知らない。
この世界は美しい。
2005年07月30日
勇敢な睡眠のための一メモ
素晴らしいものに触れることで怒りを忘れてしまうのは不安でもある。
だがその怒りもまた、オリジナルではない。
何かを防衛し足を踏み出さないでいるための符牒にすぎない。
すべての怒りは「義憤」であり、正当性こそが、快感原則のホメオスタシスを最も強固に守り抜くのだ。
義憤という名の吝嗇を越えさせるのは、一人の証人である。
熱力学の第一法則という揺り籠を出る時、普通ヒトは、それを見届ける者を求める。
つまりは神という遍在性の代理人であり、メモリ上に実体化した(時間化した)構造への参照を示す変数である。
だから結局、恋愛という具体性もまた卑劣な防壁にすぎないわけだが、流れ終わるという一点において、肛門的吝嗇を越えてはいる。
それが何ほどのことか、という疑問はもちろん残しながら。
実際、この代理人が背負っているのは既にconcreateされた流れであり、世界の構造などではない。
それはわたしが何をしているのかを教えてくれるが、誰なのかを解き明かしてはくれない。
ただwhatをもってwhoに代えるささやかな勇気と諦念、そして重要なことに、往生際の悪さを与えてくる、ということは忘れるべきではないが。
わたしは何事につけ大げさに過ぎる。
同じ場所にばかり戻ってくるが、この弱さだけが悪であり、問題のすべてなのだろう。
今日はもう眠る。
2005年06月04日
正当な眠り
わたしの願望は眠ることだ。
正当な眠りは、どんな代価で買うことができるのだろうか。
2005年04月25日